敵は本能寺にあり! “明智光秀 叛逆の道”を歩く △歴史に連なる山登り△(0001)
明智光秀が織田信長を討つために進軍したであろう、京都・亀山城から本能寺に向かう旧山陰道を歩いてみます。
「旧山陰道」(きゅうさんいんどう)
場所: 京都府亀岡市・京都市
アクセス: JR山陰本線(嵯峨野線)「亀岡」駅から徒歩3分ほどで亀岡城跡
※呼称や表記は「旧山陰道」や「山陰古道」など複数あります。また時代により再整備されて複数のルートがあることもありますが、ここでは便宜上「旧山陰道」で統一します。
豊原国周||筆,波多野 常定『「見立本能寺之場」「織田信長 中村芝翫」 「阿尾之方 助高屋高助」 「森蘭丸 市川左団次」「明智光秀 尾上菊五郎」』(東京都立図書館所蔵)「東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)」収録(https://jpsearch.go.jp/item/tokyo-R100000086_I000026999_00)
<端緒>
およそ440年前の6月、日本史上でも屈指のクーデターが起きました。“本能寺の変”です。
明智光秀が主君・織田信長を裏切り、自らの軍勢を率いて信長がいた本能寺を急襲。その結果、信長は日本統一を目前に斃れました。このとき、光秀は自らの居城である丹波亀山城(現在の京都府亀岡市)から当時の山陰道を東進し入京した模様です(諸説あり)。今回は旧山陰道を亀山城跡から京都・本能寺に向かって歩いてみたいと思います。
<概要>
山陰道は畿内と山陰諸国を結ぶための官道として整備されました。旧山陰道は現在の国道9号線に全体的に沿って残っています。
“本能寺の変”の頃、明智光秀は京都隣国の丹波国の支配を任されていました。このとき光秀は信長から中国の毛利攻めへの加勢を命じられて亀山城で軍勢を整えていました。
今回のコースは亀山(現“亀岡”)から東へ、京都・丹波の国境である老ノ坂を越えて沓掛に下り、京都の樫原を通って本能寺跡(現在の京都市中京区小川通蛸薬師元本能寺町。堀川四条近く)に至ります。
<トレッキングコース>
JR「亀岡」駅の近くにある亀山城跡に立つ明智光秀の銅像の前(南郷公園)からスタートです。お堀沿いの公園のなかを東へ進み、保津門跡にある交差点を右折して府道25号線(春日坂)を上がり、そのまま府道402号線の交差点に進みます。25号線と402号線の交差点のあたりはいまも“旅籠町”という地名が残っており、ここが近世の亀山宿(宿場町)であったことをうかがわせてくれます。
交差点を左折しちょっと歩くと古世親水公園があります。ここは亀山城の外堀跡を利用した公園であり、水路が残されております。親水公園の先をさらに進むとすこし大きめの通りであるクニッテルフェルト通りに合流します。右折して通りを進みその先の信号を左折して402号線に入ります。年谷川にかかる年谷橋を渡りしばらくそのまま東へ歩きます。旧山道を示す看板もあります。
西川を渡ると左手にJR「馬堀」駅があります。駅を通り過ぎて亀岡市立病院へ向かいます。このへんの道筋がちょっと不明瞭です。病院から住宅の間を抜けて篠村八幡宮につながる細い道がいかにも古道っぽい。また402号線も愛宕山の常夜燈や古民家などが各所にあり昔の風情が残されております。前者が古来の道なのか農道を整備したものなのか? 後者は江戸時代に入ってあらためて整備された山陰道なのか?
今回はとりあえず後者の402号線を歩いて行きます。道の周りには畑と旧家の趣を残した民家も建ち並んでいます。歩いた時期には各所で聖護院蕪が無人販売されていました。402号線は国道9号線と並行しており、道が細い割に交通量は多いです。
しばらく歩くと左手に篠村八幡宮が現れます。篠村八幡宮は、ここで光秀が重臣たちに真意つまり「信長に叛逆して本能寺で討つ」と打ち明けた場所とも言われています。なお、ここは足利尊氏が鎌倉幕府に背いて旗を立てて決起した場所ともされております。武将たちとっては自らの決意を固め戦勝を期するために良縁の地だったのかもしれません。
ふたたび402号線を東へ進みます。その先の右手に王子神社があります。402号線を挟んで左手側に旧山陰道入口の道標がありますのでそれに従い402号線から外れて左側の畑の方へ入っていきます。ここから先は畑の間の道を進みます。ところどころに旧山陰道のポイント説明などの看板が立っています。
道なりに行くと国道9号線に合流します。この先からは国道9号線の路側帯を東へ(京都市方面に)しばらく歩きます。しかし狭く、しかも交通量が非常に多いので危ないゾーンになります。500mほどの距離(10分かからないほど)ですが注意が必要です。
9号線を500mほど進むと右手に横への道が出てきますので入ります。9号線を慎重に渡ります。この道は京都縦貫自動車道の上下線の間に通された道でもあります。トンネルの手前で道はカーブして高速道路の下を抜けます。道は竹林の中の坂を上がっていきます。老ノ坂という古道の雰囲気が伝わってきます。酒呑童子に由縁のある首塚大明神を過ぎてすこし歩くと山城国と丹波国の境を示す石柱が残されています。
首塚大明神を過ぎると舗装された道が切れてその先は土の道となります。高架の下のくぐり進むと、左手に“洛西散策の森”へのトレッキングルートがあります。今回はトレッキングルートには入らずにそのまままっすぐに道を森の中へ下っていきます。しばらく進むと舗装道路に出ます。道なりに水路に沿って下っていきます。右手は京都霊園の敷地です。京都霊園のゲートに出てすこし歩くと国道9号線にふたたび合流します。
しばらくは9号線脇の歩道を進みます。すこし歩くと9号線から左に府道142号線が分岐しますので府道へ入ります。このあたりが沓掛の地となります。142号線からは住宅街の中をずっと通っていきます。山中の寂しさから抜け出した安心感があります。このルートの一部は東海自然歩道にもなっています。
142号線を進むと9号線と交差しますので、これを横断して142号線をそのまま歩きます。右手にある貯水池(新池)の脇、さらに三ノ宮神社の前を通り過ぎてかわらず142号線を進みます。このあたりが樫原となり、旧家の佇まいを残した古い民家もちらほらとあります。樫原の先で阪急京都線の線路を渡ります。左手(北側)に「桂」駅があります。
線路を渡って集会所の先の丁字路を左折します。住宅街に入って十字路などの分岐が多くたくさんの道と交差してちょっとわかりにくいですが、基本的にこのまま142号線を道なりに進みます。やがて桂川そして桂大橋となります。桂大橋の手前の左側は桂離宮です。142号線はこのあたりから八条通とも呼称されているようです。
桂川から渡った先、そこからが旧山陰道の痕跡が不明瞭です(地図や関係書籍も確認しましたが)。とにかく京都の出入り口の西側のひとつが“丹波口”であることは分かっています。それは現在のJR山陰本線「丹波口」駅のあたりだったようです。光秀たちは丹波口を通って京都内に入ったのではないでしょうか。
丹波口を抜けて五条通を東へ進みます。堀川通と交差してこれを北へ上がります。堀川通を進み四条通を越えます。その先の右手に堀川高校が出てきます。堀川高校の敷地の端に「東堀川交番」があります。この交番のある横へ右折して蛸薬師通りに入ります。その1ブロック先の交差点に高齢者用の福祉施設が建っています。ここが本能寺の跡地です。
“本能寺跡”の石碑もあります。この地が日本史においても屈指となる事件が起きた地となります。石碑以外に特段のものはなく周辺は普通の住宅街であり、当時の面影を残すものはほぼありません。“兵共が夢の跡”でしょうか。
本能寺跡からすこし足を延ばしてみたいと思います。地下鉄を利用して東西線「東山」駅で降ります。そのすぐそばを流れる白川に沿って南へ下ると、京都華頂大学の手前に「餅寅」という和菓子屋さんがあります。その建物の横道を左に入りすこし奥へ行くとありました。“明智光秀の首塚”です。伝承ではここに明智光秀の首が埋葬されたとのことです。
今回はここがゴールです。
<行程表>
※標準的タイムによる目安(休憩は含まず)
亀山城跡→ 年谷川・年谷橋(20分)→ 篠村八幡宮(35分)→ 山陰古道分岐・王子神社(15分)→ 国道9号線・合流地点(20分)→ 国道9号線・旧山陰道分岐(5分)→ 老ノ坂道標(15分)→ 国道9号線・再合流地点(30分)→ 府道142号線分岐(5分)→ 国道9号線との交差点“樫原秤谷”(40分)→ 阪急京都線踏切(25分)→ 桂川・桂大橋(20分)→ 山陰本線「丹波口」駅(15分)→ 本能寺跡(30分)
コースタイム/ 4時間30分程度
<トレッキングコースの補足>
全体的に総括しますと基本としては住宅街のウォーキングです。老ノ坂前後で山道の雰囲気が多少あります。
亀岡市側には“旧山陰街道”の道標も複数あります。
府道402号線は交通量のわりに路側帯しかないところもありますので注意が必要です。
老ノ坂の手前で国道9号線の路側帯を500mほど歩きますが、交通量が非常に多いです。また途中で反対側へ9号線を横断しなければならないため慎重かつ十分に注意してください。
首塚大明神の先から京都霊園に出るまでの道が森の中の土の道となります。登山道というほどではなく傾斜はありますがスニーカーやウォーキングシューズで問題ないかと思われます。
<日帰り温泉など>
京都市側には複数の銭湯があります。
<売店等>
ルート上にはコンビニエンスストアやスーパーストアが複数あります。
岩佐又兵衛筆,By Iwasa Matabei,東京国立博物館,Tokyo National Museum『洛中洛外図屏風(舟木本)』(東京国立博物館所蔵)「ColBase」収録(https://jpsearch.go.jp/item/cobas-47666)
<“本能寺の変”に黒幕はいたのか?>
“本能寺の変”で語られることが多いトピックのひとつが黒幕説でしょうか。
つまり本能寺の変は明智光秀の単独犯行ではなく、裏で光秀に叛逆を引き起こさせた人物や勢力があったのではないか?という議論です。多くの黒幕説があります。素人でただの好事家の個人的な印象ですと「いなかったんじゃないのかなー」というところでしょうか。面白くありませんが。
光秀が以前から信長への叛意を持っており彼に強力な後援者がいたとしても、信長が少数の手勢だけで本能寺に滞在するという状況を計画的に工作できたとは思えません。しかも光秀が信長を完全包囲できるほどの軍勢を揃えることが不自然ではないタイミングに合わせることなどは不可能だったのではないでしょうか。変後に光秀へ積極的に強い支援や協力をする大きな組織行動がなかったことも単独犯行説の裏付けのように思えます。
しかしながら、光秀に対する結果的な協力者はいたかもしれないなとも思われます。光秀は信長の動向の情報収集に怠りはなかったでしょう。光秀の叛意を知らずに「信長様が本能寺に少数の手勢だけで宿泊しますよ」という情報を伝えた人たちがいたとしても不思議ではありません。ひょっとしたら変前に行われた連歌会・愛宕百韻の参加者などからもたらされたのかもしれません。
光秀にとってこれはまさに天佑と感じる出来事だったかもしれません。これが「信長を討つには今しかない!」と決断させたのではないでしょうか。そういう意味では“本能寺の変”はほんの偶然で光秀の発作的な蜂起であった可能性もあります。サッカーでいえば「ごっつあんゴール」だったといえるのではとも感じています。
<私的な雑感>
今回のルートは基本的には市街地のなかを歩くタウンウォーキングです。ハイキングやトレッキングの雰囲気があるのは亀岡市側の王子神社にある旧山陰道入口から京都市側に入って老ノ坂を過ぎたあたりまでです。
今回、この道を歩きながら、明智光秀はどんなことを思いながら本能寺へ向かっていたのだろうかなーと考えていました。信長を倒して天下を獲る!と野心を燃え上がらせていたのか。叛逆が成功するか不安を抱えながら悩んでいたのか。まったくの個人的な空想にしか過ぎませんが、光秀はどちらかというとネガティブな思いでいたのではないかなーという気がしています。それも、信長に対する怒りや憎しみといった攻撃的な感情ではなく、悲しみや失望といった暗い気持ちだったのではないかなと想像しています。
このころ、中国の毛利攻めをしている豊臣秀吉との出世競争に光秀は後れをとりはじめていたとも考えられます。2年前には織田家譜代の重臣であり一大勢力であった佐久間信盛が失態を問われて突然に追放されるという出来事がありました。光秀は、失政をしたら自分も追放されてしまうかもしれない不安と恐怖、これまで気付いた地位と名誉を失うことへの危機感が強くあったのではと考えています。
あえて妄想を暴走させると、恋愛に例えるならば、これまで相思相愛でラブラブだったのに、あるときふと相手の気持ちが自分から離れていっているのではと疑い出す。ついには思いあまって「捨てられるくらいなら、オマエを殺す!」という恐ろしい妄念に陥っていたのではないかなーと…。まあ、あまりにも乱暴すぎる妄想なので笑い飛ばしてください。
このルートの最大の難所は老ノ坂に入る手前の国道9号線の路側帯歩きになります。交通量が双方向で非常に多いですし、車両もかなりスピードを出しています。たぶんドライバーさんは、こんなところを歩いている奴がいるわけがない、と考えていると思います。正直なところ、ここを歩くのは怖いなーと感じました。とくに9号線を横断する必要がありますので慎重かつ十分にご注意ください。国道9号線をバスが運行していますのでこの間をバスに乗車して老ノ坂の部分はバスを降車してから9号線を除いた旧道部分だけを往復してもいいかもしれません。
老ノ坂あたりに入ると、往古の風情を感じる静かな竹林と森の中となります。山城国と丹波国の国境を示す石の道標も残されており、すぐそばに高速道が走っていることも忘れます。一方で沓掛に入ってから丹波口までの市街地歩きが長く感じられました。後半にも入りますので、やはりアスファルトの道歩きはすこし疲れます。142号線は古い道の名残が感じられもします。微妙な道の起伏やうねり具合は元の自然の地形や地勢にしたがってつくられたものと思われます。
大雑把にいうと休憩を入れて5時間強のウォーキングコースです。観光コースといえるほどの名所旧跡が途中にあるわけではありません。とはいえ、歴史好きや戦国時代好きなので、半日の歴史ウォーキングとして楽しめたなーという感想です。
<備考>
●参考資料
書籍「現代語訳 信長公記」 (中経出版)
書籍「完訳 フロイス日本史(3)安土城と本能寺の変」 (中央公論新社)
書籍「日本合戦騒動叢書9 川角太閤記」 (勉誠出版)
書籍「明智軍記」 (KADOKAWA)
書籍「京から丹波へ 山陰古道 西国巡礼道をあるく」 (文理閣)
(2023/06/17 上町嵩広)