風俗からこども食堂へ 貧困の連鎖を断ち切ろうと苦闘する夫婦 宮崎・プレミアム親子食堂
風俗街で出会う
マキ(34歳)がユウジ(45歳)に出会ったのは21歳。2人が生まれ育った宮崎市内の風俗街でだった。
マキは働いていた飲み屋で知り合ったパチンコ依存症の夫と別れたところ。ユウジは日中ビルメンテナンスの会社を経営しながら、夜はデリヘル業(デリバリーヘルスという業種の風俗店)に携わっていた。ユウジもこの時点でバツ2だった。
2人は結婚。デリヘルやSM店経営の後、本業のビルメン経営の傍らで、一般社団法人「日本プレミアム能力開発協会」という団体を立ち上げ、その事業の一環で、2015年1月に「プレミアム親子食堂」を立ち上げる。これが、宮崎県内のこども食堂の先駆けとなった。
風俗業の経営から、法人立ち上げを経て、こども食堂へ。2人の軌跡はいかにもアヤシゲで、眉をひそめる人もいるかもしれない。
しかし、この2人のストーリーを、貧困の中で育った者たちが貧困の連鎖を断ち切ろうとしてきた苦闘のストーリーとして見ると、見える景色はまた変わってくる。しばし2人のストーリーに耳を傾けてみたい。
【マキのストーリー】
パチンコ依存症の父と暮らす
マキが物心ついたとき、すでに母はいなかった。
母は、自分を産んですぐに逃げた。パチンコ依存症の父を嫌ってだったのかもしれない。両親の離婚の原因は今でも知らない。
父のパチンコ依存は救いがたいものがあり、マキの小さいころの思い出と言えば、パチンコ屋の長イスの上だった。
夜の9時までパチンコ屋にいて、家に帰れば借金の取り立てが待っていた。
父はすぐに逃げられるように夜勤のタクシーで働いていた。
父が不在の中、マキと姉は取り立てをおそれて押入れの中で息をひそめていた。
父はパチンコに負けると不機嫌になった。酒を飲み、マキたちを口汚く罵った。食事中、咳をしただけで食事をぶちまけられたこともあった。
そんな父を嫌い、4つ上の姉はマキが小学校6年生のときに家を出ていった。
土下座して頼んだ部活のスパイクを断られ…
マキ自身は「ふつう」だったが、中学2年から歯車が狂い始める。
キッカケは部活の陸上で使うスパイクが必要になったことだった。陸上でよい成績を収めれば高校推薦が見えてくると先生に言われ、どうしてもスパイクが欲しかった。
マキは家の経済状況をよく理解していたが、勉強の苦手な自分にとってスパイクが未来への切符だと考えたマキは、意を決して、父に土下座してスパイクを買ってくれるよう頼んだ。
「誰かに教わったわけではないが、そういうときは土下座するもんだと思っていた」とマキは笑う。
しかし、父は買ってくれなかった。
そのころから、家出を繰り返すようになる。
飲み屋から風俗へ
学校にもあまり行かなくなり、そのまま卒業。
自宅がイヤでたまらず、彼氏と一緒に橋の下で寝泊まりしたり、女友達の家に長期で泊まりながら地元でアルバイトをしていた。しかしそれも限界となり、当時の彼氏の父親を頼って、埼玉の川口へ行く。飲み屋でアルバイトを始めた。
父のことは嫌で仕方なかったが、それでも同居の祖母とは連絡をとっていた。その祖母から「父がうつ病になった」と告げられ、17歳で再び宮崎に帰る。
祖母は、風俗街でヤクザの「2号さん(愛人)」を集めた飲み屋を経営していた。厳しい人で「女も一人で生きていくしかないんだ」とマキに説いた。中卒の17歳娘は、結局宮崎でも飲み屋で働くようになる。
その後、飲み屋で知り合った相手と結婚。18歳で妊娠し19歳で母となるが、父と同じくパチンコ依存症の夫に愛想をつかして、出産4~5ヶ月後に離婚。子どもは自分で引き取り、マキは再び働きに出る。
今度は風俗だった。
19歳から風俗で働いていたマキがユウジに出会うのは21歳。ユウジは当時32歳。ユウジはマキに「風俗から抜けさせたい」と話した。
【ユウジのストーリー】
ヤミ金業者のあっせんで宮崎に
ユウジは1972(昭和47)年生まれ。
宮崎県日向市で生まれたが、両親が9歳のときに離婚。母がヤミ金に手を出しており、そのヤミ金業者からの紹介で宮崎にやってきた。
離婚の原因は、母が姉の保証人になって大きな借金を抱えたこと。ユウジは青年期、この借金と格闘しつづけることになる。
母は宮崎で風俗の仕事を始め、2~3年で自分の店を持つに至った。
風俗店が集まる一角にある店のバックヤードで寝起きするのがユウジの日常だった。
新聞配達をしながら、パンと牛乳を「頂戴」する子ども期
自分の小遣いは自分で稼ぐように言われていたユウジは、小学5年から新聞配達を始めた。
朝、配達の傍ら、商店の店先からパンと牛乳を頂戴し、それを朝食にした。風俗街で育てられた友だちもみんな似たようなものだったから、「そんなもんだ」と思っていた。ケースごといただくことはしない。あくまでも1日1個だけいただく。それが彼のルールだった。
毎日、同じ店から頂戴した。当然、店主は気づいていただろうと思う。しかし、大ごとになることはなかった。見逃してくれていたんだろう、と今は思う。
中学時代はバイトをしながら学校には行かず、ただ生きること、友達を失わないことに必死になっていた。高校受験は考えなかった。周囲はみんなそうだった。
マグロ漁船から風俗へ
卒業後、母の紹介でマグロ漁船に乗る。今思えば「売られた」のだろう。
3年間、フィリピン沖や台湾沖で操業した。800万円ほど貯まったが、すべて母の借金返済に消えた。
たとえ子でも親の借金を返す義務はない、などと教えてくれる人はいなかった。「おまえは息子だから」と当然のように言われ、自分も仕方ないと思っていた。成人までに返済したお金は1200万円にのぼったはずだ。
陸に上がってからは、夜、板前をやりながら、終了後は朝まで飲み屋で働く日々。それも2年で辞め、自分を見捨てず可愛がってきてくれた先輩たち5人で飲み屋を開業。数年で14店舗まで増やした。商才はあった。
しかし、そこにも借金取りが押しかけてきて、店を続けていくことはできなくなった。
その後、サラリーマンなどを転々とし、30歳でビルメンテナンスの会社を創業。しかし、それだけでは食べられないので、夜はデリヘルも運営した。
そこでマキと出会う。32歳だった。ユウジにはすでに小学1年の連れ子がいた。
【2人のストーリー】
風俗でケア
マキは風俗から抜けたが、ずっと夜の世界で生きてきたマキにできることといったら、やはり夜の仕事だった。ユウジと2人でデリヘルの運営に携わる。
ただ、少し変わった風俗店経営者でもあった。2人の下にたどり着いたワケあり女性たちを風俗業界のニッチなニーズにあてはめることで、なんとか「救おう」とした。
一般社団法人ホワイトハンズ代表の坂爪真吾氏の『性風俗のいびつな現場』(筑摩書房、2016年)などに詳しいが、風俗業界の奥は深く、多くの男性が若い女性を求めるものの、それ以外の女性やシチュエーションを求めるさまざまなニーズがあり、風俗業界はそのニッチなニーズにもどん欲に応えてきた。マキたちもそれを利用し、ニッチなニーズに応えるお店を開いたり、他店に紹介することなどで、10代や50代を含む女性たちの生きる糧を確保した。
SM店開設で働き口を創設
たとえば、かつて心臓病を抱えて東京から移住してきた30代半ばの女性がいた。
本人はサーフィンをやるために移住してきたと言うが、移住後すぐに持病の心臓病が急激に悪化。まともな暮らしができる状態ではなかった。はじめは昼間も働いていたが、医療費、働かない彼氏の生活費に消え、その日のご飯も食べられない状態になってマキたちの元にたどり着く。しかし、子宮頸がんも発症していた彼女に「ふつう」の風俗はできない。
そこで、マキたちが考え出したのがSM店経営だった。SMプレイならば、性交渉なしでも客を満足させられる。そうして、その女性に働き口をつくりだした。
「当時、宮崎市内では唯一のSM店でね。結構もうかったんですよ」とマキたちは笑う。
「今なら公的支援につなげたでしょうけど、当時はそんな知識もなくてね。いかに風俗で生きていけるようにするかしか考えられなかった」とユウジ。
公的サービスに関する無知、公的機関との接点のなさは、多くの貧困層に共通する。
娘への悔い
そんな2人だったが、ついに風俗から抜ける日が来る。ユウジのビルメンテナンス業が軌道に乗り、昼の仕事だけで食べていけるようになってきたのだ。2人で風俗経営に携わって3年後のことだった。
その後はマキもユウジの仕事を手伝いながら、子育てをした。
しかし、その子育ても大変だった。
一番の悩みはユウジの連れ子の長女だった。彼女の実母、つまりユウジの別れた前妻は、覚せい剤を使っては逮捕され、退所後にまた覚せい剤を使っての繰り返しで、娘に包丁をふりかざすこともあった。
当然ながら娘は情緒不安定に育ち、マキは義理の娘との関係づくりに苦労する。実母はしばしばマキたちの家に押しかけ、トラブルにもなったが、マキとの関係がよくない娘は実母に肩入れすることもあり、それがまたマキをいらだたせた。
結局、娘はマキたちの家を出て17歳で出産、産んだ直後に離婚、結局は幼子を連れて、実母と一緒に飲み屋をやり始めた。
典型的な貧困の再生産だった。
後に始める活動は「あの子をまともに育てられなかった罪悪感も影響していると思う」とマキは振り返る。
キッカケは川崎市中1男子生徒殺害事件
ユウジの事業は軌道に乗り、ビルメンの管理先は60棟を超え、5棟の持ち物件を保有するまでになった。マキも手伝ったが、ときに孤独死した部屋の後片付けもせざるを得ない仕事に、マキはなじめなかった。
そんなとき、川崎市で当時中学1年生の男の子が先輩などに殺害される事件が起きた(2015年2月)。
マキは、テレビで被害者の母親が「母子家庭で昼夜働き続ける中で、息子のあざなど異変に気づいてあげられない事実がありました」と世間に謝るのを見た。ネット上でもさまざまな批判が飛び交っていた。
「なぜ、被害者の保護者が謝らなければならないのか」と思うと同時に、キレイゴトではすまないとも思った。ダブルワーク、トリプルワークで生計を立てながら、常に子どもを気にしてあげることがいかに困難か、マキは自身を含め、あまりにも多くの「見たくないもの」を見てきてしまった。
何かしたい、という気持ちが動き出した。
法人を立ち上げ、活動を始める
最初に思いついたのは、望まぬ妊娠から出産後の児童虐待に至ることを防止する相談事業や、特別養子縁組に取り組む団体を応援する活動だった。
家庭環境に恵まれなくても、特別養子縁組を通じて新たな家族に迎え入れられることで、幸せな人生を送ることのできる子どもはいるはずだと思った。また、望まぬ妊娠による中絶や、出産しても育てる自信がないといった相談に乗っている助産師会を応援することから始めようと思った。
福祉や支援活動などの経験はなく、何から始めていいかわからなかったが、とにかく「今の自分たちにできること」を考え、すでに活動をしている団体の情報を拡散することから着手した。
同時に、母親が生きていけるための「手に職」をつける活動も考えた。自身も含め、あまりにも多くの「カラダ以外に資本のない」女性たちを見てきたからだ。通信制で資格取得を応援する活動を始めた。
立ち上げた「一般社団法人日本プレミアム能力開発協会」のホームページには、ハウスクリーニングや児童虐待防止支援アドバイザー、パステルアート、ステンドグラスアートなどの資格講座のメニューが並ぶ。
親子食堂へ
資格取得支援などで親たちと出会い始めると、案の定、シングルマザーの多くがダブルワーク、トリプルワークで働いている現実が見えてきた。子どもに食費を渡して自分で食べさせる母親の多くが「これはネグレクトなんじゃないか」と自分を責めていた。
自身も3人の子育てを行うに至っていたマキは「親子の会話をする時間が必要」と考えるに至る。そこで始めたのが「プレミアム親子食堂」だった。食事を通して、親子の会話のきっかけを作ることが目的だ。
マキの「親子食堂」は「こども食堂」の一種だが、その運営方法は少し変わっている。
宮崎市の子ども子育て課を通じて、親子食堂のチラシを児童扶養手当受給世帯に渡してもらう。
希望する世帯は、毎月1日から10日の間に、マキの法人に食事券を受け取りに来る。食事券は、提携する定食屋・居酒屋などで使える。自分たちで食事を提供するのではなく、提携する店舗に食べに行ってもらうスタイルの「こども食堂」だ。
マキはこのスタイルを、自身の経験から考えついた。幼いころ、借金取りを逃れて祖母の飲み屋の周辺をうろうろしていると、よく近くのお店が食事させてくれた。そのちょっとした親切が、行き場のない子どもにはとてもありがたかった。
わざわざマキの法人に来てもらうのは、顔を合わせて話す機会を作るため。それが相談支援活動ともなる。
面談を通じて、どの提携食堂で食事券を使うかを決めてもらう。提携先の食堂は市内8店舗。食事は毎月第3土曜日に決めていて、店ごとに決められた時間帯に食事に行く決まりだ。
メニューは店が決め、親子は無料でそれを食べる。マキたちは、1食あたり500円を提携先に支払う。この資金は、寄付を集めつつ、足りない分はユウジの副業収入から補てんした。「去年は相当補てんしましたね」とユウジは笑う。
現在、登録者はひとり親世帯ばかりで100名を超えた。マキが提携先に頼んでいるのはただ一つ。「ごはんだけはおかわり自由で、腹いっぱいたべさせてやってほしい」ということ。
最初の提携先は、ユウジの幼馴染だった。同じ中学校で育ち、世の中の大人たちに不満を抱えてきた仲間だ。ユウジの良い面も悪い面も知り尽くしている。
居酒屋「丁稚」を運営する池堂直樹さんは、提携先になった理由を「ユウジに頼まれたから」とさらりと答えた。特別な「支援」をしている感覚はない。友だちに頼まれたからやっているだけ。小さい子が多いので、食事はパスタ、から揚げ、コロッケなどが多い。従業員を巻き込まないよう、食事は毎回自分でつくる。これまでに5~60人が食べに来ただろうか。
毎回来る親子もいるし、夜に一般客として顔を出してくれた親子もいる。笑顔になって帰ってくれればいいと見守るが、食事中、話をせず、疎遠な感じの親子もいる。
食料とともに情報を提供
今、マキたちは寄付してもらった食材などを融通するための「宮崎こども商店」の運営もしている。
マスコミで取り上げられるようになったおかげで、お米などの食材が寄付されるようになったが、マキたちは自分たちで食事を作って出しているわけではない。だったら、寄せられた食材を宮崎県内のこども食堂で融通し合うシステムをつくろう、という発想だ。生活困窮世帯から直接連絡が来るようにもなったため、食料や衣類を直接送る活動もしている。
食料を送る際には、行政や民間の支援情報を伝えることも忘れない。過去の自分たちが必要な情報がなかったことで苦しんだ経験があるからだ。
早くしないと…
マキにこれからの構想を聞いた。
「今年やりたいのは、望まぬ妊娠をした女性たちにシェルター(避難所)を提供すること、そして各種シェルター退所後の女性たちが保証人なしでも飛び込んでこられる住居の提供だ」と言う。
つながりの生まれた助産師会やDVシェルターの悩みを聞いたのがきっかけだった。幸い、ユウジの事業の関係でおあつらえ向きの社員寮がある。望まぬ妊娠をした女性たちが安心してこどもを産める環境をつくりたい。
また、薬物から抜け出るための支援活動もやりたいし、風俗街をうろつく子ども・若者向けの夜回りもしたい。仕事で親のいない子どもたちがさびしい思いをしなくてすむよう、放課後の子どもたちの居場所もつくりたい。
マキの構想はどこまでも自身の経験に根差している。経験に根差しているから具体的で、想定する対象者の顔が明確に思い浮かんでいる。
次から次へと事業展開するマキたちに対しては「腰が据わらない」という批判もある。ただ、マキにとってはむしろ遅すぎるし、足りなすぎる。多くの人が「見えていない」課題は依然としてあまりにも多く、そこには手を差し伸べられていない子どもたち、母親たちがいる。早くしないと、子どもはどんどん生まれ、どんどん育ち、そしてまた貧困が連鎖していってしまう――そんな焦りがマキにはある。
貧困の連鎖を断つ
現在、マキとユウジには、中2、小4、5歳の子どもがいる。
中2の長女は私立中学に通う。自分たちと違って、職やお金や人脈に困らないよう、せめて高校は必ず卒業してほしかったので、本人の意見も聞いたうえで中高一貫に通わせることにした。
吹奏楽部に所属し、日々勉強と演奏に明け暮れる充実した日々を過ごしている。そして彼女の現在の夢は、医者になること。連綿と続いた貧困の連鎖を自分たちの代で断ち切れるかもしれない――。そこにマキとユウジの期待があり、活動の原動力がある。
貧困の連鎖は断ち切ることができる――その証明は容易ではなく、世の中には反証も満ちている。
マキの活動も、ユウジの事業も、これからも危機を迎えることがあるかもしれない。しかし、完全に断ち切れるかわからない中で、それでもそこを目指して格闘している人々の苦闘は、記録されてよいし、記憶されるべきだ。その積み重ねが、本当に貧困の連鎖を断ち切ることのできる社会をつくる。冷笑から生まれるものはない。マキとユウジの苦闘が、それ自体として尊重される世の中を望みたい。