1976年のモハメド・アリ 猪木戦は「世紀の凡戦」だったのか?
1976年6月3日、モハメド・アリが亡くなった。享年74歳。言うまでもなく、伝説のプロボクサー、英雄である。
ネットニュース時代、スマホ時代というものは残酷なもので。会合の最中にスマホのプッシュ通知が何度もあり。毎日新聞からの速報メールが「危篤状態」であることを伝え、それからしばらくして、朝日新聞の速報メールが逝去を伝えた。各種ニュースアプリのプッシュ通知も、だ。もちろん、スマホは便利なのだけど、なんというかこういう悲しい知らせがプッシュ通知で届くのは実に虚しい。いつも悲しいお別れは突然やってきて、すぐにすんでしまう。
オリンピックでの金メダル、3度の世界チャンピオン戴冠、数々の防衛戦、ジョージ・フォアマンとの名勝負などボクシングでの輝かしい実績だけでなく、相手を「口撃」するアピール、イスラム教への改宗、ベトナム戦争徴兵拒否などでも話題になった。スポーツ選手の枠を超えた、英雄であり、反逆のヒーローだった。
一度だけ、モハメド・アリの姿を生で見たことがある。1999年4月4日のアントニオ猪木引退試合で、ゲストに来ていたのだ。聖火台への点火、花束の贈呈などを行った。もっとも、彼は1980年代からパーキンソン病を患っており。病と闘う英雄の姿は、見ていて複雑な心境になるものだった。
そう、日本においては、アリといえばボクシングでの功績だけでなく、なんせアントニオ猪木との異種格闘技戦「格闘技世界一決定戦」が有名なのだ。アリの死を伝えるメディアも必ずと言っていいほど、猪木戦のことに触れている。今朝の朝日新聞なども猪木戦に関して多くの文字数を割いていた。40年前、1976年6月26日、アリは猪木と日本武道館にて闘った。15ラウンドを闘いぬき、引き分けだった。
もっとも、この試合は「世紀の茶番」「世紀の凡戦」などと酷評されたこともあった。アリ側がルール変更を何度も要請し、プロレス技がほぼ禁止となったのだ。猪木はリングに寝転がり、アリの脚を蹴り続けた。のちにアリキックと言われるものである。片方が立ち、片方が寝た状態での攻防は、総合格闘技の世界でものちに「猪木アリ状態」と呼ばれるようになった。途中、猪木のタックル、アリの左ストレートなどの見せ場もあったのだが。リアルファイトだからこその展開だった。なんせ、この試合を「成立」させること自体が猪木と、当時のビジネス・パートナー新間寿氏にとっては一世一代の大勝負だった。交渉に交渉を重ねた末の奇跡だった。このあたりの事情は柳澤健氏の『1976年のアントニオ猪木』(文藝春秋)に詳しく載っているので、ぜひご覧頂きたい。
果たしてこの試合は「世紀の凡戦」だったのだろうか。そうとも言えない。なんせ観客の期待が大きすぎたこと、ルール問題、なんといっても、この展開を楽しむだけのリテラシーが当時の観客やメディアになかったことが大きいと言える。
格闘技指導者であり、プロ格闘家としての現役時代にヒクソン・グレイシーやジェラルド・ゴルドーとの死闘を経験した中井祐樹氏と公開対談した際に、彼は「猪木対アリは、今見るとめちゃくちゃ面白い」と評価していた。ルール内でのギリギリの展開であり、緊迫感のある攻防なのだ。現在の総合格闘技では、長時間かけて相手の体力消耗や、ミスを誘う闘い方も当たり前になっている。その中井氏とジェラルド・ゴルドーとの日本武道館での死闘も(中井氏はこの試合で片目を失明している)、踏みつけられても殴られても相手の脚を下から狙い続ける攻防だった。
別にプロレス、格闘技ファンがオタク話をしているというわけではない。何が言いたいかというと、物事の評価というのはその時「だけ」で決まるわけではない。時代に対して新しすぎたものというものもある。先人の努力というのは簡単に否定してはいけない。当時はダメでも、今なら評価されるものだっていっぱいあるはずだ。例えば、インターネットを使ったサービスなんてものはそうだ。ちょうど今年はYahoo!JAPANも20周年だ。関連して、「インターネットの歴史」という企画があったが、これを見ても明らかな通り、時代に対して新しすぎて、消えていったサービスなんてものもあるわけで。今考えると評価が変わる取り組みなんていうものもある。
試合に対する当時の評価は高くなかったし、多額の借金を背負ったりもしたが、これによって猪木の名前は世界に知れ渡った。猪木を別のステージに連れて行った傑作とも言える試合だ。アリにとっても、現役時代の「偉業」となった。
私たちも、残る仕事をしよう。
ありがとう。
合掌。