戦後ニッポン「男女平等」の光と影 ベアテ・シロタ・ゴードンさん死去に思う
終戦直後、連合国軍総司令部(GHQ)民政局の一員として日本国憲法の起草に参加し、24条の「男女平等」条項を書いた米国人女性ベアテ・シロタ・ゴードンさんが昨年12月30日、膵臓がんのためニューヨークの自宅で亡くなった。89歳だった。
共同通信に対して、ベアテさんの娘のニコルさんは「母は生前、憲法の平和、男女同権の条項を守る必要性を訴えていた。改正に総じて反対だったが、この二つ(の変更や削除)を特に懸念していた。供物で弔意を示したい場合は、代わりに護憲団体・9条の会に寄付してほしい」と語ったそうだ。
ベアテさんの発案で盛り込まれた日本国憲法24条は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」とうたっている。
ベアテさんは平成12年5月、参院憲法調査会で「男女平等」条項が誕生した経緯について詳しく証言している。
「私は、戦争の前に10年間日本に住んでいたから、女性が全然権利を持っていないことをよく知っていた。だから、私は憲法の中に女性のいろんな権利を含めたかった。配偶者の選択から妊婦が国から補助される権利まで全部入れたかった」
ベアテさんの草案は現24条より随分と長かった。
・家庭は、人類社会の基礎であり、その伝統は、善きにつけ悪しきにつけ国全体に浸透する。それ故、婚姻と家庭とは、両性が法律的にも社会的にも平等であることは当然であるとの考えに基礎を置き、親の強制ではなく相互の合意に基づき、かつ男性の支配ではなく両性の協力に基づくべきことをここに定める。これらの原理に反する法律は廃止され、それに代わって、配偶者の選択、財産権、相続、本居の選択、離婚並びに婚姻及び家庭に関するその他の事項を、個人の尊厳と両性の本質的平等の見地に立って定める法律が制定されるべきである。
・妊婦と乳児の保育に当たっている母親は、既婚、未婚を問わず、国から守られる。彼女たちが必要とする公的援助が受けられるものとする。嫡出でない子供は、法的に差別を受けず、法的に認められた子供同様に、身体的、知的、社会的に、成長することにおいて機会を与えられる。
・養子にする場合には、夫と妻、両者の合意なしに、家族にすることはできない。養子になった子供によって、家族の他のメンバーが、不利な立場になるような偏愛が起こってはならない。長男の単独相続権は廃止する。
草案はGHQ内部で現24条に近い案に絞り込まれたが、日本側は猛反発した。ベアテさんは参院憲法調査会で「日本側は、こういう女性の権利は全然日本の国に合わない、こういう権利は日本の文化に合わないなどと言って、大騒ぎになった。天皇制と同じように激しい議論になった。夜中の二時に男女平等の条項がまた大変な議論になった。もう随分遅く、みんな疲れていた」と振り返っている。
米国側と日本側両方の通訳をしていたベアテさんに対する日本側の印象は良く、GHQ民政局ケーディス大佐はそれを利用して、「ベアテ・シロタさんは女性の権利を心から望んでいるので、それを可決しましょう」と日本側に提案した。ベアテさんが男女平等の草案を書いたことを知らなかった日本側はびっくりして、「それではケーディス大佐が言う通りにしましょう」と同意し、現在の24条が固まった。
ベアテさんがいなければ、日本の「男女平等」がどうなっていたかわからない。その意味で、ベアテさんは日本にとって「男女平等」の母と呼ぶにふさわしい。
こうした光の部分に比べて、「男女平等」が戦後日本に落とした影の部分についてはあまり知られていない。
平成16年4月の衆院憲法調査会。生命倫理学の草分けで、元早稲田大国際バイオエシックス・バイオ法研究所長、木村利人氏が「科学技術の進歩と憲法」をテーマに参考人として証言した。その内容は衝撃的だった。
木村氏は医療の「インフォームド・コンセント(十分な説明と同意)」を日本に初めて紹介、故坂本九さんが歌った「幸せなら手をたたこう」の作詞家としても知られる。
刑法は戦前、戦後を通じて堕胎を厳しく禁じているが、婦人参政権が認められた昭和21年の総選挙で39人の女性代議士が誕生し、第一号の加藤シヅエさんらの議員立法で昭和23年、人工中絶の違法性を阻却する優生保護法(現・母体保護法)が施行された。
米連邦最高裁判決が「中絶は女性のプライバシー権」と認めたのはその25年後のことだから、戦後、日本の男女平等は米国を一気に追い抜いてしまったのだ。
富国強兵に突き進む日本は昭和16年、一夫婦平均5人出産という「産めよ、殖やせよ」政策を閣議決定し、「東亜共栄圏建設と発展のため内地で昭和35年に1億人」の目標を掲げていた。
しかし、その一方で米国の人口学者は昭和初期に、「世界人口の危険地域」の一つに、明治5年の約3300万人から昭和5年の約6370万人へ約60年間で人口がほぼ倍に増えた日本を挙げて、日本は東南アジアに国内過剰人口のはけ口を求める恐れが大きいと戦争の勃発を予言していた。
木村氏は衆院憲法調査会で「優生保護法は、米占領治下に可能になった法律だ。米国の戦後の統治の文献などを読むと、日本にやらせてはいけないことの一つとして、人口の増加ということがあった」と指摘した。
つまり、女性の権利を守るという触れ込みだった優生保護法には、日本の人口増加を抑制するという隠された狙いがあったというわけだ。
しかし、米側から思わぬ反発が起きる。バージニア州のカトリック信者からGHQのマッカーサー最高司令官あてに「このような法律をつくったら、日本人を大量虐殺した将軍、ジェノサイド・ジェネラルと呼ばれるでしょう」と抗議の手紙が届いた。
マッカーサーが自分でサインした手紙には「私は、日本人をジェノサイドするつもりはない」と記され、優生保護法の成立には関係していないことを強調している。
強姦が多発、経済的に困窮していた戦後の混乱期、優生保護法は女性の味方とされた。戦前、「人口1億人」の達成目標年とされた昭和35年は同42年にずれ込んだ。
木村氏は「米国というのは、いろいろな人体実験を含めて、極めて人権侵害を意図的に、大胆にやってきた国の一つだ。広島、長崎という、人間が、人類が絶対起こしてはならない犯罪的戦略によって日本の人口に対するアタックをした。米国がしたもう一つの実験の一つは、日本に優生保護法をつくったということだ」と証言した。
日本は先進国の中でも最も少子高齢化が進んでいる。これは米国の実験が成功したことを意味しているのだろうか。
ベアテさんの「男女平等」が戦後日本の光明として語られることはあっても、世界に先駆けて導入された優生保護法の成立過程や、優生保護法と少子高齢化の関連性に光が当てられることはない。
(おわり)