【高野町(高野山エリア)】高野山への途中にある、日本最後の仇討ち現場
宗教の聖地高野山近くの山の中に、どうしてこんな縁遠そうな仇討ちの碑があるのか気になっていたので、覗いてきました。
仇討ち概要
尊皇攘夷の機運が高まった幕末の赤穂藩では、財政難により下級藩士の不満が渦巻いていた。藩主の後継ぎ問題に絡んで1862年、権力闘争が発生し、藩政を担っていた佐幕派の村上天谷が尊皇攘夷派の下級藩士ら13人に襲われ、家老の森主税とともに暗殺される「文久事件」が起きた。
藩は当該の下級武士達を赤穂藩森家の墓守り役と称して、高野山の釈迦文院へ預ける策をとった。高野山へ逃げ込めば討つことは出来ない。情報を察知した遺児の村上4兄弟は父親の仇討ちを計画。高野山へ先回りし、3人の助太刀を頼み7名で峠で彼らを待ち構えた。
明治4年(1871年)2月30日に文久事件で暗殺に関わった藩士らを高野町神谷で殺害する「高野の仇討ち」を起こした。
壮絶な戦いが繰りひろげられ、およそ30分で6名全員が討たれた。並べた6名の首の前に村上4兄弟は父親の位牌を置き仇討ち本懐の報告をした。関係のない下級武士の13歳の弟が巻き添えで死亡者は7名。村上4兄弟側は重症3名負傷2名、お互い20台後半の若者達であった。
事件は明治政府が復讐を禁止するきっかけとなった。「もう一つの忠臣蔵」とも呼ばれ当時大いに話題になった。(神戸新聞HP他より一部抜粋、改変)
→1873年(明治6年)政府は「仇討ち禁止令」を発布。
※気になる人もいるかもしれないので・・・日付に2月30日のある理由について
明治5年11月、政府より太陰太陽暦から太陽暦に切替える旨の太政官布告が発せられ、同年12月2日(天保暦の日付)の翌日をグレゴリオ暦に基づき明治6年(1873年)1月1日とした。
それまでの太陰太陽暦では月名に関係なく1か月は29日または30日であるため、年によって、現行の太陽暦であるグレゴリオ暦には存在しない2月30日という日も存在した。
なので、仇討ち時の明治4年はまだ太陰太陽暦なので2月30日が存在している。
※上記の高野の仇討ちは、1873年(明治6年)政府による「仇討ち禁止令」が出される前の日本最後の仇討ち。
「仇討ち禁止令」以後の歴史上の最後の仇討ちと言われているのは、1880年(明治13年)12月17日の臼井六郎の仇討ち。詳細はWikipediaに掲載されています。
――――――――――――――――――――――――――
「日本最後の高野の仇討ち」
住所:和歌山県伊都郡高野町西郷340 (墓所)
※現場及び看板は別の場所にあります。
※現場は細い山道が続くのと、駐車スペースは非常に限られているので、運転には十分お気を付けください。