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小野伸二が語る─引退を考えたドイツW杯惨敗から「サッカーしかない」の境地まで

元川悦子スポーツジャーナリスト
日本代表時代を糧にして、今も現役を続ける小野伸二(写真:築田純/アフロスポーツ)

「日本代表に選ばれることはとてつもない喜びでした」

 98年春、日本にとって史上初となるフランスワールドカップ(W杯)の代表候補メンバーに選ばれた時、小野伸二(札幌)は目を輝かせた。世界最高峰の大舞台に立った18歳の天才はこれを皮切りに通算3度のW杯に出場。が、その全てが喜びに満ちあふれたものではなかった。とりわけ、2006年ドイツW杯の惨敗は脳裏に深く刻まれている。

 苦い記憶から15年。41歳の彼は日本代表時代をどう受け止めて、いかにして立ち上がったのか…。

 「小野伸二の日本代表論」を改めて聞いた。

「外れるのはカズ」と18歳の選出に賛否

 98年5月末、W杯フランス大会を率いる岡田武史監督(FC今治代表取締役会長)は17歳の市川大祐(清水U-15監督)と18歳の小野伸二を招集し、開幕8日前の6月2日には三浦知良(横浜FC)、北澤豪(日本サッカー協会理事)、市川を最終登録メンバーから外した。小野を本大会に連れていくことには賛否両論が巻き起こったが、10代の天才がジャマイカ戦で見せたパフォーマンスは、日本サッカーの輝かしい未来を予感させた。

18歳で出場したジャマイカ戦で堂々たるプレーを披露(写真:JFA/アフロ)
18歳で出場したジャマイカ戦で堂々たるプレーを披露(写真:JFA/アフロ)

――初招集は98年4月の日韓戦でした。

「日本代表の最初の印象はカズさんやゴンさん(中山雅史=磐田コーチ)。テレビで見ていた選手が目の前にいるんだ、ホントにすごいなと。僕らからしたらカズさんは雲の上の存在。話しかけるのもおこがましいなって感じ。そのくらい特別な存在でした。

 チーム全体もすごく質が高かった。正直言って、誰でも日本代表に入れるという時代じゃなかったですね。今は選手がすぐに入れ替わって『この子も代表なんだ』って感覚ですけど、当時の日本代表は重みが全く違った。固定されたメンバーの中に入るために壁を乗り越えなきゃいけないという感覚でした」

――98年フランスW杯のジャマイカ戦の印象は?

「僕の中では大して記憶に残ってないです(苦笑)」

日韓W杯でチームを支えた存在に感謝

――99年7月にはひざの大ケガもあって日本代表に定着できない時期も続きましたが、2001年コンフェデレーションズカップから一気に2002年日韓W杯メンバーの座をつかんで16強入りに貢献しました。

「2002年はバランスが良くて、サッカーに集中できたんです。それにトルシエさんは日本人にすごく合ってたなと思います。練習時間の長さとかもあったから、W杯が終わった時に『もうトルシエさんとはいいです』って冗談半分に言ったけど(苦笑)、人間的には規律がしっかりしてた。

 一番ピリピリしてたのは、試合のメンバー発表。当日の出発前に発表するんですけど、その前の練習や紅白戦なんか一切関係ないんで、ホント緊張感があった。自分がメンバーの中に入ってるのかどうかっていう不安もありながらも、どこかワクワクしてましたね」

ベスト16入りした2002年日韓W杯に思いを馳せる小野伸二(写真提供:北海道コンサドーレ札幌)
ベスト16入りした2002年日韓W杯に思いを馳せる小野伸二(写真提供:北海道コンサドーレ札幌)

――チームの雰囲気は?

「勝てた要素は、ゴンさんや秋田さん(豊=盛岡監督)たちベテランが盛り上げ役になってくれたこと。練習も率先して取り組んでくれたのが大きかったですね。厳しく練習する時はやって、ふざけるところはふざける。自分はストレスがたまると、それがピッチ上のプレーに出てしまうんですけど、そういうことが一切なかった。ゴンさん、秋田さんが雰囲気をうまく変えてくれたし、長い大会であればあるほど必要不可欠な存在だと痛感した。心から感謝しています」

「サッカー人生で初めて引退を考えた」

――2006年ドイツW杯は、そういうチームを支えるゴンさんや秋田さんのようなタイプの年長者がいなかったことが敗因とも言われています。

「それはありますね。僕も26歳になっていろんなものが見えていたけど、何でも言えるタイプじゃなかったし、当時のチームは年上の人が多くて、なかなか言えなかった。それでも言わなきゃいけなかったと思います」

――引退を決意されていた中田英寿さんとはどのようにコミュニケーションを取られていたのでしょうか?

「ヒデさんがどこまで引退を考えてたかは誰にも分かんない部分でした。ただ、もし引退するって決めていたのであれば、みんながもっともっと1つになって絶対にいい形にしようって態勢は作れた。ヒデさんのためにみんなで1つになりたかったなと今も思います」

2006年ドイツW杯期間中に中田英寿と談笑する小野(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)
2006年ドイツW杯期間中に中田英寿と談笑する小野(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

――試合では途中出場したオーストラリア戦で逆転負けを経験しました。

「やめようかなっていうくらい気持ちが落ちましたね。サッカー人生で初めて引退を考えました。でも、当時引退したばかりの先輩・田畑昭宏さん(浦和アカデミースカウト)が『今、マジでサッカーやりたいよ、だからやりなよ』と言っていたので、僕は『もっとやらなきゃいけない。サッカーを続けられるんだから感謝すべきだな』と。『俺にはこれしかない。体が持つまでやるぞ』って気持ちが湧いてきたんです」

黄金世代でクラブチーム結成の願い

 けれども2008年以降、小野が日本代表のユニフォームに袖を通すことはなかった。同期の稲本潤一(相模原)が2010年南アフリカW杯のメンバーに選ばれ、遠藤保仁(磐田)が最多キャップ数の152を記録する姿を、小野は遠くから見守ることになる。その後、日本代表は大きく若返り、今では90~2000年代生まれのメンバーが軸を担っている。

――日本代表への未練はありますか?

「どうですかね…。日の丸を背負いたいのは誰しもがいつまでも持ち続ける気持ちなんだと思います。ただ、若い世代が頑張ってる姿はうれしく感じますね。

 日本がこの先、W杯16強の壁を超えるためには、チームが1つになることが大事なんじゃないかな。1つの輪になった時に初めてそういう結果が生まれる。多少の運も必要ですけどね」

高原直泰や稲本潤一ら同世代との絆は永遠だ(写真:アフロスポーツ)
高原直泰や稲本潤一ら同世代との絆は永遠だ(写真:アフロスポーツ)

――79年生まれの黄金世代中心でW杯を戦ってみたかった?

「確かに。僕らの同級生はホントに能力の高い選手ばかりですからね(笑)。ヤット(遠藤保仁)は技術も高いし、代表152試合も驚きはないです。満男(小笠原=鹿島アカデミーアドバイザー)も引退する時に『伸二には勝てなかった』と言っていたと聞きましたけど、そんなことはない。僕は大して記録も残してる選手じゃないし、鹿島でタイトルをたくさん取って主力を張ってきた満男はみんなが憧れる存在。彼らとは代表よりも同じクラブでプレーしてみたかったな。クラブで一緒だったのは、タカ(高原直泰=沖縄SV)とイナ(稲本潤一)だけですからね。大きなスポンサーを見つけられたら『FC79年世代』を結成したいくらいです(笑)」

「僕にはサッカーしかないですから」

――今も同世代の現役は何人もいますが、小野選手はカズさんの領域を目指します?

「カズさんの領域なんて、おこがましいですよ(苦笑)。そこが目標ではあると思いますけど、あのお方の記録を抜ける選手はこれから出てくるのかな…。それくらいすごいことですよ。ただただすごいって言葉しか見つかりませんね」

――でも行けるところまで行くと。

「そうですね。結局、サッカーしかないですから。僕にはサッカーしかない。体が動く限り、長くやりたいです」

 天才・小野伸二という存在に憧れ、リスペクトを払う後輩たちは今も少なくない。もちろん彼を見続けてきた多くのサッカーファンもそうだ。魔術師のようなボールテクニックを駆使して創造性豊かにプレーする姿をいつまでも多くの人々の心に焼き付けるべく、彼には40代を思いきり駆け抜けてほしいものだ。

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サッカーのできる喜びを噛み締める小野伸二(筆者撮影)
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■小野伸二(おの・しんじ)

1979年9月27日生まれ。静岡県沼津市出身。清水商業高校卒業後、1998年に浦和レッズ入団。2001年、オランダの名門フェイエノールトに移籍、2001-02シーズンにUEFAカップ(現ヨーロッパリーグ)優勝を果たす。2006年に浦和に復帰。その後はボーフム(ドイツ)、清水エスパルス、ウェスタン・シドニー・ワンダラーズ(オーストラリア)でプレー。2014年にコンサドーレ札幌に加入し、2019年夏まで在籍。2021年、FC琉球から札幌に復帰。日本代表としては1998年に初選出、18歳で代表デビューを飾る。ワールドカップには1998年フランス大会から3大会連続で出場。日本代表では通算56試合出場6得点を記録した。

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スポーツジャーナリスト

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から7回連続で現地へ赴いた。近年は他の競技や環境・インフラなどの取材も手掛ける。

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