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思想教育で国民に真実を教えてしまう、金正恩の「オウンゴール」

高英起デイリーNKジャパン編集長/ジャーナリスト
金正恩氏(朝鮮中央通信)

韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領は7日の国民に向けた談話で、今年4月に総選挙での与党・国民の力の候補公認に、自身と妻の金建希(キム・ゴニ)氏が介入したという疑惑を巡り、陳謝した。

これ以外にも様々な疑惑と失政が重なり、尹大統領の支持率はどの世論調査でも2割前後まで落ち込み、就任以来最低を記録した。

野党・共に民主党は、ソウルの南大門付近の大通り上で、参加者が手にろうそくを持って抗議の意を示すろうそく集会を開くなど、攻勢を強めている。

北朝鮮の国営メディアも、この集会のことを大きく報じており、国民を対象にした特別情勢講演会も開かれている。その内容を、咸鏡北道(ハムギョンブクト)のデイリーNK内部情報筋が伝えた。

この特別講演会は、今月8日の午前、道内の主要機関、1級企業所(従業員3000人以上の大企業)のイルクン(幹部)を対象にして行われ、15日午前から道内のすべての青年同盟、朝鮮社会主義女性同盟などを対象にして行われる。別々に行われるのは、伝えられる内容が異なるからと思われる。

講演会では朝鮮労働党の咸鏡北道委員会、市や郡の委員会のイルクンが壇上に立ち、次のような言葉で講演を始めた。

「毎週土曜日ごとにかいらい韓国では、ろうそくデモが行われている。これは労働者、農民、青年、大学生、野党のメンバーが立ち上がり、尹錫悦を打倒するためのものだ」

講演者は、尹大統領を「民生を破綻させた張本人」で「韓国を戦争の危機にさらした張本人」でもあるとし、このような不穏なことを語った。

「朝鮮半島が戦争に巻き込まれつつあることに反感を抱いた韓国の人民は、ろうそくデモの行進を断行し、尹錫悦かいらいとその妻である金建希を八つ裂きにして殺そうという大行動で団結している」

共に民主党側は、今月4日に開かれた集会には30万人が参加したと発表したが、警察発表の1万7000人とは大きくかけ離れている。ちなみに、この日の集会が開かれたのは、5車線の200メートルあまりの区間だった。韓国全体で激しい議論が行われているが、朴槿恵大統領(当時)を退陣に追い込んだ、2016年のろうそく集会の熱気とは程遠い。ましてや「八つ裂き」などと公言する人はいないだろう。

講演者は、尹大統領の非難に時間のほとんどを費やした。

「あたかも正義、公正な検事のように国民を騙して大統領の座に就いた尹錫悦は、今では公正と常識を捨てて妻の不正を隠蔽するために動いている」

さらに講演者は、韓国がウクライナに派兵すると述べた。

「尹錫悦がロシア・ウクライナ戦争に大切な息子たちを派兵しようと準備している」
「われわれもロシアのきょうだいのために何をするか国家レベルで考えている」

その一方で自国の兵士をロシアのクルスク州の前線に送り込んだことについては、いっさい言及しなかった。

(参考記事:「まさか息子がウクライナへ」北朝鮮兵の家族ら動揺…「すでに戦死」情報も

講演者は最後に、「朝鮮半島に戦争の火種が迫っているが、尹錫烈政権が弾劾で滅びる日は遠くない。韓国の愛国的な国民と力を合わせて国土占領完遂を成し遂げなければならない歴史的な機会が迫っていることを念頭に置いてほしい」と、放棄したはずの朝鮮半島の統一、それも「武力統一」を主張し、常に緊張を緩めないよう求めた。

この講演会は、韓国を非難することで内部の引き締めを図る北朝鮮の常套手段だが、参加した人々は真逆のメッセージを受け取ってしまった。講演内容の「尹錫悦」を「金正恩」に置き換えれば、ほとんどの部分で、北朝鮮の実情に当てはまってしまうからだ。

異なっているのは一部に過ぎないが、それこそが両者の違いを鮮明にしている。参加したある幹部は、講演を聞いてこんなことを小声で口にしたという。

「韓国では、大統領の顔写真を破って名前を呼び捨てにしても、何の問題にもならない」
「大統領が間違ったことをすれば、あのようにデモもして、弾劾もできる」

北朝鮮は、金正恩総書記を批判する落書きが見つかっただけで大問題となり、地域住民全員の筆跡調査を行うなど、徹底して犯人の割り出しを行う。逮捕された人の運命は言うまでもない。八つ裂きにされるのは権力者ではなく、一般国民の方だ。

(参考記事:北朝鮮の15歳少女「見せしめ強制体験」の生々しい場面

政治を含めた表現の自由がまったくない北朝鮮で、民間人がデモを行うことなど考えもできない。舌禍の発生を避けるために、特に必要がなければ、金正恩氏の名前を口にすることも避けるほどだ。

デイリーNKジャパン編集長/ジャーナリスト

北朝鮮情報専門サイト「デイリーNKジャパン」編集長。関西大学経済学部卒業。98年から99年まで中国吉林省延辺大学に留学し、北朝鮮難民「脱北者」の現状や、北朝鮮内部情報を発信するが、北朝鮮当局の逆鱗に触れ、二度の指名手配を受ける。雑誌、週刊誌への執筆、テレビやラジオのコメンテーターも務める。主な著作に『コチェビよ、脱北の河を渡れ―中朝国境滞在記―』(新潮社)『金正恩核を持つお坊ちゃまくん、その素顔』(宝島社)『北朝鮮ポップスの世界』(共著)(花伝社)など。YouTube「高英起チャンネル」でも独自情報を発信中。

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