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ノーベル文学賞2022年の行方は?

鴻巣友季子翻訳家・文芸評論家
事務局長を務めた故サラ・ダニウス氏(写真:ロイター/アフロ)

ノーベル文学賞のおさらい、おさらい、おさらい

今年もノーベル賞発表の時期がやってきた。ノーベル文学賞の発表は10月の初旬の木曜日と決まっており、今年は6日(木)すなわち今日だ。日本での発表時間は午後8時。ここ2、3年は村上春樹に関する騒ぎは落ち着いてきて、予想オッズも控えめである。

では、ノーベル文学賞に関して誤解の多い基本のおさらいから!

1.授賞対象作品はない。たとえばイギリスのブッカー賞のように、単一の作品に与えられる賞ではない。生涯を通じた功労賞的な側面もある(そのため授賞年齢が高くなりがち)。

2.対象国の制限はない。たとえば全米図書賞はアメリカ合衆国で出版された英語作品のみが対象。ノーベル文学賞には作家の国籍、出版国などの縛りはない。

3.対象言語の制限はない。何語で創作する作家であれ、候補になりうる。

4.候補者は発表されない。最終候補者として5人が選出されるが、これは公表されない。世間で「ノーベル文学賞候補になっている」というのは、すべて「下馬評」のこと。候補者リストは50年後にようやく開示される。

選考委員はいつ、なにをしているのか?

さて、選考の流れはどうなっているのか。

年明けに推薦人から候補者が集まりはじめる。そして非公開のショートリスト(最終候補)がスウェーデンアカデミーによって承認されるのが5月。ここから10月上旬までに、数人の作家を徹底的に読みこまなくてはならない。選考メンバーのエレン・マットソンによれば、小説家、詩人の創作だけでなく、論文などにも目を光らせるという。

なるほど!と思った。昨年の受賞者アブドゥルラザク・グルナ(ザンジバル出身のイギリス作家)は、それまで大きな国際文学賞の受賞を経ずにいわゆる「無冠」でノーベル文学賞を授与された近年ではわりと稀有な作家なのだが、小説以外にもグギ・ワ・ジオンゴやサルマン・ラシュディなどの文学の研究者としても知られていたのだ。スウェーデンアカデミーが多面的に評価しているのが窺えた。

マットソンはこの夏だけでも「7000~8000ページ読みました」と言っている。候補者を決して漏らしてはいけないため、彼女はたいてい家の中か庭で本を読むが、外で読むときは必ずカバーをかけ、家にお客さんが来る日は書斎のドアに鍵をかけるのだという。こんなインタビューもあります。

ノーベル文学賞の事前リークがあったというのは本当か?

事前に「賭け屋」発表するオッズがある程度、有力候補の情報源となっている。スポーツ試合の賭けと同じことを文学賞の受賞にもやるわけで、基本的には「人気投票」ぐらいに思った方がいいのだが、有力作家リストはただの素人には作れないような編成であることは確かだ。

また困ったことに、ある時期までは、発表の直前になると急に倍率が下がる(順位が上がる)作家というのがいて、その人が受賞するということはよくあった。スウェーデンの詩人トランス・トロンメルのとき、ベラルーシのジャーナリスト、スヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチのときも、順位が不意に上昇したのを覚えている。なにより慌てたのは、2016年にボブ・ディランが急上昇してきたときだ(実際に受賞した)。

そう、実際にリークは行われていたのだ。これはアカデミー側も認めている。大スキャンダルに発展したあの性暴行の主の男性が授賞作家を外部に漏らし、それをもとに賭けて儲けていた人たちがいたのである。この男性がさらに情けないのは、選考委員の女性の夫であり、そのポジションを利用してセクハラや汚職を行っていたことだ。

この一件を経てノーベル文学賞は選考委員もスタッフも一新して出直した。少なくとも、もうリークはないと言われている。それは去年、一昨年の、ルイーズ・グリュック、アブドゥルラザク・グルナという結果を見ても肯けなくはない。グルナは正真正銘のノーマークだった。

というわけで、オッズ表はおそらくますます当てにならなくなっている(はずです)。

ブックメイカーのオッズの信憑性

まことしやかなオッズの信憑性はどれぐらいなのか。具体的に見てみよう。

*もちろんはずすのが前提です。

  • サルマン・ラシュディ
  • インド系イギリス作家。あるブックメイカーでは1位(8/1)だ。イギリスの新聞が取り上げたことで急に伸びてきた。
  • 今年、講演の場で暴行にあったことが考慮されているのだと思うが、はっきり言ってそういう優遇はない。事件があったのが8月なので、その時点でショートリストに入っていれば、もちろん可能性はある。しかしこの一件で急にリスト入りすることはないと思う。
  • アン・カーソン
  • カナダの詩人。いかに空気を読まないアカデミーでも3年連続英語作家を選出しない気はするが、正直なところ、アメリカのドン・デリーロやコーマック・マッカーシー(ラシュディに次ぐ人気)よりもこの賞に向いている気はする。邦訳の出た『赤の自伝』(小磯洋光訳)もすばらしい。版元の紹介を引いておく。「古代ギリシアの詩人ステシコロスが描いた怪物ゲリュオンと英雄ヘラクレスの神話が、ロマンスとなって現代に甦る。詩と小説のハイブリッド形式〈ヴァース・ノベル〉で再創造された、アン・カーソンの代表作」
  • 古典文学の翻訳家である点などもプラス要素ではないかと思う。
  • ヨン・フォッセ
  • ノルウェーの劇作家。今年は有力候補といっていいのでは。畢生の7部作が完結し、最後の5部6部を含む「新しい名前」への評価が高い。ブッカー国際、全米図書賞で最終候補になり、ほかにも賞を授与されている。
  • グギ・ワ・ジオンゴ
  • ケニアの作家。戯曲、映画、論文、批評も手がける。いまはキクユ語で創作している。このかたはいつ受賞するかわかりません、とだけしか言えないです。
  • リュドミラ・ウリツカヤ
  • ロシアの作家。わざわざ今年ロシアの作家に授賞するだろうか?と疑問に思われるかもしれないが、ウリツカヤはウクライナ侵攻が始まってすぐロシアを去って、ベルリン在住と聞いている。スターリンが死んだ一九五〇年代初めからソ連崩壊まで、三人の幼なじみの人生を描く『緑の天幕』(前田和泉訳)も強力。
  • アニー・エルノー
  • フランスの作家。オートフィクションを得意とする。このかたも有力候補といっていいと思う。ここ数年よく名前を聞くが、最新作「歳月」の評価が高く、また1960年代に自らの手で行った違法中絶の壮絶な体験を描く「事件」が再び脚光を浴びている。アメリカで中絶禁止法施行のころに「事件」の映画が公開され話題になっていた(アメリカでの評価は選考に関係ないともいえるが)。

リュドミラ・ウリツカヤ氏
リュドミラ・ウリツカヤ氏写真:ロイター/アフロ

英語作家への偏り

一つ書いておきたいのが創作言語の偏りの問題だ。

この10年ぶんの受賞者のなかで、半分にあたる5名が英語作家で、英語作家への授賞比率は上がっている。アフリカ生まれ、あるいは黒人作家に同賞が授与されたことは、120年の歴史のなかでわずか7回だが、そのうち6人が英語作家なのだ。唯一の非英語作家はアルベール・カミュ。黒人作家への授賞ということでいえば、ナイジェリアのウォーレ・ショインカ、アメリカのトニ・モリスン、イギリスのアブドゥルラザク・グルナの3人だけだ。全員が英語で創作している。

第二次大戦後、とくにアメリカの経済、政治、文化的な発展により、英語はそれまで「世界共通語」の首位にあったフランス語を押しのける形で、強大なグローバル言語になっていった。英語作家への授賞の集中には批判もあると思う。

とはいえ、ひとくちに英語といっても多様なスタイルと歴史がある。

たとえば、グルナはアラブ系住民とアフリカ系住民が烈しく対立したザンジバル革命で、迫害を逃れてイギリスに亡命している。その後、『楽園』「放棄」などの小説群で、置き去りにされたもの(過去)と、未だ到来しないもの(未来)の狭間で引き裂かれた難民の運命を独自の視点と筆致で描きだしてきた。昨年の授賞会見によれば、その英文には、スワヒリ語、アラブ語、ヒンディー語、ドイツ語のテイストも感じられると言う。インド洋に位置するザンジバル島は、幾度も支配国の変遷を経ており、様々な文化と言語が混交する。世界がグローバル化するずっと昔からコスモポリタン都市だったということだ。

ちなみに、グルナは「どうして母語のスワヒリ語ではなく英語で書くのか?」としばしば訊かれると、「英語はクリケットと似ている。もとはイギリス人の発明なのだろうが、いまではみんなのゲームだし、往々にして外国人の方がうまくプレーするんだ」と答えるという。

有力作家まとめ

フランスか北欧、アジアの女性なども来そうな予感(単なる予感です)。

  • ヨン・フォッセ(ノルウェー)
  • アニー・エルノー(フランス)
  • エレーヌ・シクスー(フランス)
  • スコラティック・ムカソンガ(フランス)
  • ピエール・ミション(フランス)
  • アン・カーソン(カナダ)
  • ドゥブラヴカ・ウグレシィチ(クロアチア/在オランダ)
  • イスマイル・カダレ(アルバニア)
  • 残雪(中国)
  • 余華(中国)
  • 多和田葉子(日本)
  • 小川洋子(日本)
  • ミア・コウト(ポルトガル領モザンビーク)

ノーベル文学賞の発表は明日10月6日午後8時です

結果:受賞者はフランスの作家アニー・エルノーでした。

*2022/10/6 updated

授賞発表をするマッツ・マルム氏
授賞発表をするマッツ・マルム氏写真:ロイター/アフロ

翻訳家・文芸評論家

英語文学の現代小説から古典名作まで翻訳紹介に努める。訳書はエミリ ー・ブロンテ「嵐が丘」、マーガレット・ミッチェル「風と共に去りぬ」、ヴァージニア・ウルフ「灯台へ」、マーガレット・アトウッド「昏き目の暗殺者」「獄中シェイクスピア劇団」「誓願」、J・M・クッツェー「恥辱」「イエスの学校時代」など多数。2018年に刊行した著書「謎とき『風と共に去りぬ』」は画期的論考として高い評価を得る。ほかに「熟成する物語たち」、「翻訳ってなんだろう?」など翻訳関連の著書も多い。津田塾大学、学習院大学、 早稲田大学エクステンションで翻訳の教鞭もとる。毎日新聞書評委員。日テレ・CS日テレ番組審議委員。東京都生まれ。

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