日本語の語尾の「ちから」 女言葉、男言葉、翻訳での役割 #性のギモン
「あら」「〜だわ」「〜だぜ」といった、性差を強調しがちないわゆる女言葉、男言葉。近年、ジェンダー・ニュートラルな考え方が広まり、こうした表現はステレオタイプと受け取られることも多い。そんななか、翻訳文においては女言葉、男言葉が用いられるケースがあり、ときに批判の対象になってきた。日本語における女言葉、男言葉が生まれてきた背景は? 翻訳する上で重要なこととは? 日々の実践のなかから翻訳者が考える。
■女言葉、男言葉はある種のフィクション
男女平等の実現のためジェンダーロール(性別の役割)の解消が進むにつれ、しばらく前から、「女言葉、男言葉」が問題になるようになった。「~だわ」「~のよ」といった終助詞や、「あら」などの間投詞を用いる女言葉、「~だぜ」「俺は~さ」といった終助詞や人称代名詞を使う男言葉。
性差の徴(しるし)として使われてきたこれらは、役割や立場、性格などを記号的に示すいわゆる「役割語」の一種といえるだろう。「役割語」とは、小説家の清水義範がその機能を指摘し、日本語学者の金水敏が『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』(岩波書店)で命名した言葉づかいで、とくにフィクション作品において、社会における役割、立場、性格など記号的に示す語彙や語尾を指す。
たとえば、もの知りの老人や博士はなぜか「そうじゃ、わしが〇〇じゃ」といった調子でしゃべる。「ごめん遊ばせ、よろしくってよ」と言うキャラクターが出てきたら、これは育ちのいいお嬢様だというサインだ。
ひと昔前までは、上記のようなしゃべり方をする人が現実にいてもいなくても、フィクションの世界での約束ごととして難なく通用していた。女言葉、男言葉にもそのような面があるだろう。女言葉、男言葉はある種のフィクションなのだ。
物語を書くにあたり便利な手法ではあるかもしれないが、「女性・男性はそれぞれこうあるべし」というジェンダーのステレオタイプを押し出すことにもなるし、ジェンダーのあり方には二つしかないという前提に立つことにもなってしまう。これは偏見や差別を助長しかねない。
■翻訳文へ向けられる批判
いま日本語は男女別の縛りから離れようとしている。役割語だけでなく、「雄々しい」「女々しい」、あるいは「雌雄を決する」(どちらが優れているか判断する)といったジェンダーがらみの表現も差別的と見られ、使用が控えられることがあるし、わたし自身は、「姦(カン・かしましい)」というような漢字の使用にも慎重になるところがある。
こうして言語がだんだんジェンダー・ニュートラルなほうへ変わっていくなかで、批判の矛先が向けられたのが、翻訳文だった。外国語の小説、映画、外国人のインタビューなどにおける、女言葉、男言葉の濫用がひどいという指摘だ。たとえば、アメリカ人女性にインタビューをすると、その答えの吹替えや字幕は、「あら、そうかしら? わたしなんかは〇〇のほうが好きよ。だって、おいしいじゃない?」のように訳されることが多々あった(いまもある)。
このような話し方は女言葉であるだけでなく、なぜか初対面の取材者を下に見たような馴れ馴れしい口調になっているのも不自然だ。”アメリカ人はやたらとフレンドリー”という古いステレオタイプ観に影響されているのだろう。二重の偏見がある。
最近ではこういう翻訳はだいぶ減ってきたと思う。2020年に第1シリーズがNHKで放送されたイギリスのドラマ「アンという名の少女」(モンゴメリ『赤毛のアン』の翻案)では、アン、ダイアナ、マリラ、リンド夫人ら、とくに女性は語尾を裁ち落としたような、さっぱりした話し方になっていた。「わたしね、そういうのは好きじゃないの」ではなく、「わたし、そういうのって好きじゃない」といった口調だ。
こうしてジェンダー・エクスクルーシブ(性別によって使用が決まっている)な言葉づかいは減少傾向にあるとはいえ、翻訳文が女言葉・男言葉の「温床」であるというのは否めない事実だろう。
■そもそも女言葉・男言葉はいつ・どうやって生まれたのか
女言葉のほうは、最近では中村桃子『女ことばと日本語』(岩波新書)などにもまとめられているが、もとは室町時代の宮中の女官が仲間うちで使った「女房ことば」と呼ばれるものに起源があるらしい。独自につくられ、特定の階級と役職で使われていたこの言葉が、宮中から公家の家庭に広まり、江戸時代には武家屋敷や裕福な町人の娘のなかにも浸透していって「女中ことば」となった。
同時期にもう一つのルートとしては、遊女の言葉が発達し、これらが幕末に織り交ぜられて、明治期の「婦人語」の土台をつくった、ということのようだ。(『日本語学研究事典』藤田織枝執筆「女性語」項目参照)
そして明治期の女言葉の確立に一役も二役も買ったのが、翻訳という行為なのだ。このころ日本の多くの書き手が取り組んでいたのが、日本語の文語と口語を一致させる言文一致(日常の話し言葉に近い文体でものを書く)運動である。この運動の目的の一つは日本語の標準語をつくること。そして、言文一致は翻訳作業を通じて確立されたといわれる。
言文一致文体の最初期の達成者といわれる一人が、二葉亭四迷だ。二葉亭によるロシア作家ツルゲーネフ『あいびき』の訳書をひもとけば、「アラ」という間投詞や、「ますワ」「だものオ」といった語尾がふんだんに見受けられる。これは当時の女性のしゃべり方を模倣したものではない。むしろ逆で、翻訳を通してつくられたフィクション言語が出版物を通じて巷に広まったのだ。
ちなみに、二葉亭による翻訳には、いかにも男らしい男言葉もたっぷり見られる。『あいびき』の冒頭あたりを引用してみよう(青空文庫。底本「日本文学全集1 坪内逍遥・二葉亭四迷集」集英社)。
■日本語は「語尾の口調」にも情報がある
それにしても、言文一致体での会話文が男女の違いをより明確化し、エモーショナルな要素を盛りこむようになったのはなぜなのだろう。翻訳者の実感からして、こんな理由を推測している。
英語を例に挙げると、主語、動詞、目的語(補語)の語順が決まっており、それぞれを明示する。人称代名詞が頻出し、単数と複数の違い、動詞の変化などもある。だから、たとえば主語を聞き(読み)落としても、動詞の形で何人称か判別がついたり、後から出てくる人称代名詞でジェンダーがわかったりする。なにかを聞き(読み)落としてもカバーできる「余剰性」があるのだ。
一方、日本語は主語、動詞、目的語(補語)は明示しないことが多々ある。ジェンダーの違い、単数複数の違いもないし、人称代名詞もあまり使わない。そのかわり、日本語はどこに「視点」があるか、そしてどこに向かって話しているかという「方向性」、この二つを定めることで成立している部分がある。文脈依存が高い言語だ。そして、視点と方向性が日本語のどこに現れるかというと、一つは語尾ではないか。
ものすごく簡略化した例を英語と日本語で挙げる。「父が家にいる娘に電話を入れたとき、すでに娘は出かけていたので、ふたりは行き違いになった」という内容を、娘の母が友だちに愚痴っているとする。
物語の流れのなかで、ふつうこうは訳さない。主語や目的語の人称代名詞もこんなに使わないだろう。ただし人称代名詞を省いただけでは、なにがなんだかわからなくなる。
終助詞を入れて「口調」をつくると、自然とこんな感じになる。
視点と方向性が少しはっきりしたと思う。
翻訳を通じて会話文の語尾を発達させたのは、日本語での自然さと明確さを両方確保するためだったのではないか。これは翻訳者の実践に基づく推測だ。
ともあれ、現在も日本語にとって語尾は重要な情報源であるし、文面の場合は、長い会話で終助詞がまったくないと、地の文との見分けもつきにくくなる。役割語とみなされる語尾をあまり潔癖に排除してしまうと、読者や視聴者に負担がかかる恐れもないとは言えない。
■「Mr.」「Mrs.」ではなく「Mx.」? 敬称の問題は?
さて、語尾は日本語側の問題だが、原文で使われている「敬称」の問題はまた別だ。
近年はジェンダーの多様化や未婚既婚の区分けへの異議から、英語のMr., Mrs., Miss, Ms.といった敬称の使い方にも配慮が必要になっており、性別を含まないMx.の使用が主にイギリスで提唱されたりしている。
とはいえ、小説テキストに限ってはMx.での統一はかなり困難だろう。小説の言葉は現実の言葉を映そうとするものなので、現実に敬称の使い分けをしている人たちがいるかぎり、そうした多様性を映さざるをえない局面にぶつかる(たとえば、旧弊な考えの作中人物が”Mx. Smith”などと呼びかけるのは理論的、人物造形的に矛盾が生じかねない)。
また、翻訳者はいくら使い分けに反対でも、原文が用いる敬称に従うしかないのだ。
最後に、これは日本でも地域によるようなのだが、「のよ」「ね」「だわ」「かしら」という語尾、わたし自身が生まれ育った東京では、昔も今も話し言葉で使う人はわりと多い。わたしの父親世代では、男性が使っていたことも付け足しておく。これらは場所によっては、必ずしもジェンダー・エクスクルーシブなものではないのだろう。今後、こうした語尾を徹底して排除するより、どんなジェンダーの人でも自由に好きな言葉づかいができる世の中になるほうが、言語的にもより豊かかもしれない。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】