トトロはどこへ? コミュニティを形成する観葉植物の意義とは(2)
昨日、小杉のリュウゼツランの記事を書きました。
上記記事は、路傍に咲いた珍しい花を観に集まった人たちの、即席のコミュニティーができていて微笑ましかったという内容でした。
それに関連してもうひとつ、コミュニティ形成に観葉植物が関与していた例をあげて、最近身の回りに起きた小さな事件を記録しておきたいと思います。
トトロの木
それは、以前クリエイターズで取り上げました、ニヶ領用水沿いにたたずむトトロの木です。
こちらの木は、記事中にも書いた通り、地域の方々が子どもたちと一緒に、コミュニケーションの一環としていた知る人ぞ知るスポットでした。
お散歩の途中で「やあ!」と言わんばかりに現れる愛嬌のある姿は、道ゆく人を和ませていました。
それがあるとき、すべての枝を切られ、丸裸にされてしまったのだそう。
上記の記事内でもお話をきいたちはるさんから、この写真が送られてきた時には、私もしばし呆然としてしまいました。
地域自治のために
ここで、一つだけお断りしておきたいのは、私がこの記事を書いているのは管理事務所やこれを切った特定のだれかを非難するためではなく、この事件を機に「地域自治」について改めて考える時間をもらったことを皆様にもお伝えしたかったためです。
そもそも俳優である私が地域の記事を書いているのは、この地域が少しでも面白く、住みやすい街になるために、書き慣らした文章で寄与できることがあれば、という思いからです。
グルメの記事のほうがこのような記事よりもPVが高いのは忸怩たる思いなのですが(汗)、本来は地域クリエイターはこういうことを積極的に伝えていける存在であるべきではないでしょうか。(これ自体も、話す余地がいっぱいあることです)
ハンナ・アーレントも重要性を強調する地域自治
地域自治、それは時間があれば参加しているこちらの「哲学対話」で一年かけて学んだことでもありました。
普段私たちが「政治」といって思いつくのは単なる「国家的金策」であり、真の政治とは自分たちの住む地域を良くするために人が話し合い、語り継ぐことを指す、というのが、こちらでハンナ・アーレントの難解な「人間の条件」を読む中で理解したことでした。
(哲学カフェは、だれでも参加可能なので興味を持ったらぜひ上記記事中にあるリンクから開催日を調べて参加してみてください。(確か次回のハンナは6月18日)
対話、そして地域を守り育てること
この木を切ることに義があるのか、はたまた切らないことで困る人がいるのかどうか、ということは、対話によって話が進められるべきである、と感じます。
今回、いちばん残念だったのは、この木が地域の方々、特に子どもたちに愛されていたことが一目瞭然だったにもかかわらず、対話もせずに木が切られてしまったことです。
このあと、悲しんだ地元の人たちが、自分の地域から選出された議員さんに相談し、その議員さんがすぐに駆けつけてくれた、ときいた時にはすこしほっとしました。
地域自治は市民が担うもので、その市民の代表が市議会議員ですものね。
そこに信頼関係があればこそ、地域の政治(=対話して、語り継いでいくこと)が意味を持ち、活性化していくのだと思います。
これはなにも、行政だけができていないわけではなく、なんでも行政に丸投げしているのに、何かが起きると「役所は何をしているのだ」と文句を言う市民側にも責任があります。
国政よりも地域政治が下なんてことはあり得ず、市民ひとりひとりが、自分の住む街に愛着を持って意見をいうことで「政治」つまり政(まつりごと)を治められます。
このまつりごと、の語源は「祭り事」で、古くは祭りを行うことが人心を集めるためにも重要で、円滑に祭りを行うために人は、話し合い、語り継いだのですよね。
コロナ禍のために、人は対話の場をしばし失いましたが、その間にもコミュニティの絆をつないでいたのが、この木でした。
トトロの木の周りに、年齢を問わずにたくさんの地域の人が集まり、短冊を介して言葉を交わし合っていたのは、本来の意味での「政治」であり、コミュニティによる円滑な地域自治の新しい形に他ならなかったのだ、と改めて思いました。
最後に、お子さんを連れてこの道を散歩するときに、いつもトトロに会うのを楽しみにしていたお母さん、お父さん。
子どもたちが、楽しみにしていたトトロのことなので、ひょっとするとまた、どこかにひょっこり出てくるかもしれません。そのときはまた、言葉をたくさんかけて(掛けて)あげてくださいね。
トトロが戻ってくる日を心待ちにして、対話を重ねていきましょう。