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内田篤人が切り開いた『早生まれ』のメリット

安藤隆人サッカージャーナリスト、作家
2007年のU-20W杯に出場した内田篤人(安藤隆人)

内田篤人、現役引退を発表。

彼のこれまでのサッカー人生は多くのところで触れられているので割愛するが、日本サッカー界において『早生まれの重要性』を身をもって示してくれた大きな存在でもあった。

早生まれとは1〜3月生まれ(4月1日も含む)の人間を指す。日本は4月1日と2日で年度が変わることから、同じ学年であっても1〜3月生まれは4月や5月生まれの子供と比べて、1年近く成長に差が生まれてしまう。大人になれば大きな差を感じることは少なくなるが、小学校、中学校、高校など同世代やそれに近い年代で形成されたカテゴリーにおいては、成熟度の差は歴然となり、サッカーに限らずスポーツ全体の面で早生まれは大きなビハインドとなってしまう。

内田の生まれは1988年3月27日。

相当な早生まれであることはよく分かる。

まず彼の少年時代の経緯を述べていきたい。内田は中学までまったくと言っていいほど、無名な存在であった。日本一サッカーが盛んな県として知られる静岡県出身だが、彼が生まれ育った田方郡函南町のある東部地区は、ジュビロ磐田がある西部地区や、清水エスパルスがある中部地区と違って、どちらかというと強豪チームが少ない地区だった。

「僕の周りにはいわゆる強豪クラブはなかった。だから世界が狭かったんですよね(笑)」

地元の少年団で小1からサッカーを始めた内田は、FWとしてサッカーを楽しんだ。しかし、彼の所属した少年団は地区予選止まり。個人的にも県トレセンどころか地区トレセンにすら選ばれることはなかった。

彼はそのまま進学した函南中学校のサッカー部でプレーを続けた。だが、ここでもチームとしても個人としても頭角を現すことはなかった。地区大会の壁を破ることなく、またも県大会とは縁のない3年間を過ごすこととなった。当然県トレセンにも選ばれず、中学卒業まではさほど騒がれる存在ではなかった。だが、高校進学時、内田少年の中には強い意志があった。

「強いところでサッカーをやりたい。狭い世界じゃなく、もっと大きな世界を見たい。自分のいる東部より、中部の方がレベルが高い。だからこそ、中部のレベルでサッカーがしたかったんです」。

このまま『井の中の蛙』でいることに、中学生の彼は大きな抵抗を感じていた。広く、大きな世界を見たい。この向上心と好奇心が彼を突き動かした。しかも、ここからが実に冷静沈着な内田らしかった。

「でも、もしサッカーでダメだった場合を考えて、大学進学が出来るように進学校である清水東に行くことにしました」。

ただ単に強豪校でサッカーがしたかったわけではない。自らのチャレンジ精神を大事にしながらも、文武両道を掲げ、学業のレベルも高い進学校である清水東高校を選択した。

この選択にはある大きな幸運があった。内田が中3の時、静岡県の高校入試制度が変わったのだ。これまでは他地区の公立校への受験の敷居は高く、中学時代に実績を残していない内田が、中部地区にある清水東を受けることは難しかった。しかし、その制度がなくなり、全県どこへでも行けるようになったのだった。

幸運にも見舞われ、無事、無名な存在だった内田少年は、名門校に入学することが出来た。そして、さっそく梅田和男監督の目に留まった。1年の夏休みにBチームでの試合のプレーが評価され、Aチームに昇格。決め手は『スピード』だった。

内田の武器はスピードで、特に長い距離のスプリントには目を見張るものがあった。そのスピードを生かすべく、梅田はFWだけでなく、トップ下、サイドハーフなどで彼を起用した。そして、「彼のスピードを生かすにはここしかないと思った」(梅田)と、右サイドハーフで定着し、1年生ながら途中出場で流れを変える選手として重宝されるようになった。

高1の全国高校サッカー選手権大会静岡県大会決勝。内田が一番全国大会に近づいたときだった。藤枝東と対戦し、後半途中から出場したが、思いとどかず、敗戦を喫し涙した。

だが、失意の彼に、日本代表のブルーのユニフォームと固く結びつける『運命の出来事』が起こった。それこそ彼が早生まれであったことによって生まれた縁だった。

『JFA早生まれセレクション』。

これは日本サッカー協会が1月~3月の早生まれの選手にスポットを当て、年代別代表において新戦力の発掘をしようという試みだった。この第1回目が、ちょうど内田が高1から高2に進学する春に行われたのだ。

なぜこのような試みに至ったのかというと、年代別代表は、○○年8月1日生まれ以降と定めていたが、1995年にFIFAの改正で1月1日区切りに変更になった。これにより、4月2日を年度の開始とする日本は、学年が一つ上で、経験値が高く、成長の度合いも高い早生まれの選手を発掘する作業が必要になったのであった。

このとき、U-16日本代表が日本(藤枝市)で開催されるAFCU-17選手権2004(現・AFCU-16選手権)を控えており、セレクションの対象は全国の高校1年生で、内田は1988年3月27日生まれの高校1年生。ちょうどこの代表の早生まれだった。

「ウチにもセレクションに参加する選手を募集する通知が来て、ウチの1年生で早生まれを探したら、内田しかいなかったので、行ってみないかと」(梅田)。

「監督に『行って来たら』と言われたので、『はい、行ってみます』という感じでした(笑)」(内田)。

このセレクションで彼のスピードは、関係者の目に留まり、このセレクションから数か月も経たないうちに、彼は県トレセンをすっ飛ばしてのU-16日本代表入りを果たすことになる。

まさにシンデレラストーリーだった。無名の彼がいきなり日本代表のユニフォームに袖を通し、U-16日本代表のレギュラーとして試合に出る。サイドハーフとして、自慢の快足を生かした突破を見せる彼は、もはや『無名選手』ではなかった。これ以降、彼は年代別代表の『常連』となっていき、日本を代表するサイドバックに成長をしていった。

AFCU-19選手権に出場した内田篤人。インドでの1コマ(安藤隆人)
AFCU-19選手権に出場した内田篤人。インドでの1コマ(安藤隆人)

早生まれのディスアドバンテージをアドバンテージに変えて、一気に日本のトップに駆け上がっていく。

もちろんそれは内田自身の不断の努力によるものが大きいのは間違いない。彼の成功がサッカー界において早生まれにスポットライトを当てる大きなきっかけになったのも間違いない。実際に年代別代表にその世代の早生まれを呼ぶだけでなく、その次の世代の早生まれを呼んで経験を積ませる動きも出ている。内田以降は香川真司、南野拓実などが早生まれで、年代別代表において躍動して日本代表、海外のトップリーグまで駆け上がっている。

日本サッカー界において『大きな発見』の1人である内田の現役引退は、1つの時代の終わりを感じる。だが、彼がいたからこそ道が切り開かれた選手もいる。そう考えると改めて彼の存在は偉大であり、心からリスペクトをするべきフットボーラーであることが分かる。

偉大なプロフェッショナル・内田篤人。まだまだこれからもサッカー界に大きな影響を与えて欲しい。

内田篤人、高3。カタールで開催されたカタール国際ユースで優勝した時、表彰式での一コマ。カメラを向けるとお茶目な表情を見せてくれた。
内田篤人、高3。カタールで開催されたカタール国際ユースで優勝した時、表彰式での一コマ。カメラを向けるとお茶目な表情を見せてくれた。
サッカージャーナリスト、作家

岐阜県出身。大学卒業後5年半務めた銀行を辞めて上京しフリーサッカージャーナリストに。ユース年代を中心に日本全国、世界40カ国を取材。2013年5月〜1年間週刊少年ジャンプで『蹴ジャン!SHOOT JUMP!』連載。Number Webで『ユース教授のサッカージャーナル』を連載中。全国で月1回ペースで講演会を行う。著作(共同制作含む)15作。白血病から復活したJリーガー早川史哉の半生を描いた『そして歩き出す サッカーと白血病と僕の日常』、カタールW杯27試合取材と日本代表選手の若き日の思い出をまとめたノンフィクッション『ドーハの歓喜』が代表作。名城大学体育会蹴球部フットボールダイレクターも兼務。

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