欧州2400路線で善戦。ドウデュースの父・ハーツクライの英国遠征を振り返る
ガラリと馬が変わってディープインパクトを撃破
今週末、英国でキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(GⅠ)が行われる。
今年、プリンスオブウェールズS(GⅠ)に出走し5頭立ての4着に敗れたシャフリヤールやプラチナムジュビリーS(GⅠ)で19着に沈んだグレナディアガーズが走ったのと同じアスコット競馬場が舞台。他にも多くの日本馬が苦しめられたこの舞台で、2着したのがアグネスワールド(2000年、キングズスタンドS=GⅠ)。しかし、中距離以上に挑戦した各馬はおしなべて大敗を喫している。そんな中、2400メートル路線で唯一好走してみせたのがハーツクライだった。
2006年のキングジョージ&クイーンエリザベスSに挑戦したハーツクライ。この前年の夏あたりから「ガラリと馬が変わった」と当時、管理していた橋口弘次郎調教師(引退)は語った。
「4歳の夏に北海道へ行ってから馬がグンと良くなりました。元々期待は大きな馬でした。ただ、若い時はトモを中心に力がつき切らなかったので、思うように競馬が出来ませんでした」
3冠レース全てに出走。最後の菊花賞(GⅠ)では1番人気に支持された事からも、期待の大きな馬だった事が分かる。しかし、そのいずれも先頭でゴールをする事は出来なかった。
先に紹介した橋口の言葉を証明するように語るのは当時、同馬の調教をつけていた調教助手の鎌田祐一だ。
「鞍上からあまり見えなかった前脚が、4歳の秋あたりからはしっかりと見えるようになりました。トモの踏み込みが強くなった分、前も出るようになったということです」
その言葉を裏付けるようにハーツクライ自身が成績を残す。2分22秒1という当時のレコードで決着したジャパンCで勝ったアルカセットのハナ差2着に好走すると、続く有馬記念(GⅠ)は無敗の3冠馬ディープインパクトを破って自身初のGⅠ制覇を成し遂げたのだ。
「ディープに勝ったのだから、これは世界にも通用するのではないか?と、まずはドバイへ遠征しました」
こうして挑んだドバイシーマクラシック(GⅠ)をあっさりと勝利し、GⅠ連勝を決めた。
ドバイは平坦な馬場で、どちらかといえば日本馬向きと考えられ、事実、ドバイターフ(GⅠ)ではリアルスティールや今年同着といえ勝利したパンサラッサらが初GⅠ制覇をかの地で決めている。しかし、こと2400メートル路線(2010年以降は2410メートル)のドバイシーマクラシックとなると、イメージほど多くは勝てていない。GⅠになった後の計20回中、日本馬が勝ったのは今年のシャフリヤールが僅か3頭目。他の17頭中15例は欧州、もしくはドバイに開業する厩舎に入厩済みの欧州馬が勝っている。それだけ欧州勢の強いカテゴリーの壁を、初めて日本馬として破ったのがハーツクライだったのだ。
現地で見せた日本ではなかった仕種
そのハーツクライが続く舞台として選んだのがキングジョージ&クイーンエリザベスSだった。
レースは6頭立てとなった。しかし、シャフリヤールが挑んだ今年のプリンスオブウェールズSを見ても分かるように、少頭数になれば戴冠が近付くという単純な構図ではなかった。日本と違い欧州の登録料は高い。見合った対価が得られるだろうと考える陣営の馬だけが出走してくるから“強い馬が揃えば少頭数になる”という図式なのだ。
実際、ハーツクライが倒さなければいけない相手は強敵が揃っていた。ドバイワールドC(GⅠ)を勝ったエレクトロキューショニストに、前年の凱旋門賞(GⅠ)勝ち馬ハリケーンランもいた。他にも前年のインターナショナルS(GⅠ)でゼンノロブロイと接戦を演じたマラーヘルや凱旋門賞2着のチェリーミックスもいた。
それらを相手に臨むハーツクライだが、レース前、2つだけ不安があった。
「帯同馬がいなかったので、寂しがって厩舎でも啼いたり、立ち上がったり、普段、日本でしない仕種を見せました」
そう語った橋口は「左足を蹴られて青痣になった」と言い、更に続けた。
「厩務員をしていた時代でさえ、そんな事はなかったですよ」
もう1つの不安はデータ的なものなので追って記そう。
一旦は先頭に立つシーンを演出
現地時間7月29日が決戦の日だった。
前夜にアスコット入りした橋口は言う。
「深夜2時半に一度、目を覚ましました。でも、その後、気が付いたら6時でした。ハーツは7時過ぎに到着したので、それを迎えた後、自分でコースを歩きました。馬場はうねっていたし、日本にはない勾配をはっきりと感じました」
いよいよゲートが開くと、チェリーミックスが逃げてハリケーンランが2番手。ハーツクライが3番手でその半馬身後ろにエレクトロキューショニスト。日本の挑戦者は前門の虎、後門の狼に挟まれた。そのまま厳しい中盤を過ぎ、直線を向く。そこで逃げたチェリーミックスが一杯になると、その後はハリケーンランとエレクトロキューショニスト、そしてハーツクライの3頭がしのぎを削る形となった。
ラスト300メートル。まず先頭に立ったのはハーツクライだった。スタンドで見守った橋口は、一段下で見守る鎌田の肩に手を置いてジャンプしながら声援を送った。ところが、そこから欧州勢の底力を見せつけられた。内に潜り込んだハリケーンランがハーツクライをかわしたばかりか2頭の間に入ったエレクトロキューショニストも差し返す。結果、先頭でゴールしたのはハリケーンランで2着がエレクトロキューショニスト。ハーツクライは勝ち馬から1馬身差の3着に惜敗した。
もう1つ不安だった事
ここで先に触れたもう1つの不安について記そう。
この年のキングジョージ&クイーンエリザベスSは第56回だった。過去55回のこのレース、3ケ月以上の休み明けで制した馬は1頭しかいなかった。欧州のこの路線のビッグレースを久々で制す馬はほとんどいないのだ。ドバイシーマクラシック以来、4ケ月以上、間の空いていたハーツクライは、この時点で大きなディスアドバンテージを背負っていたのだ。
しかし、逆説的に考えると、そんな十字架を背負いながらあと少しで勝つか?!という競馬をしたのは実に価値の大きい事が分かる。
「確かに完調まではもうひと息という仕上がりでした」
そう口を開いた橋口だが、すぐに矜持を込めて次のように言った。
「休み明け云々ではなく、遠い場所への遠征で心身共に本来のハーツの状態に出来なかったのが敗因です」
さて、これらの功績が認められ種牡馬となったハーツクライはその後、ジャスタウェイやリスグラシュー等、海外でGⅠを制す産駒を出している。今秋にはダービー馬ドウデュースが凱旋門賞に挑む予定だ。この凱旋門賞もキングジョージ&クイーンエリザベスS同様、休み明けの馬が圧倒的に勝てないレースだが、果たしてどんな臨戦過程を踏むのか。欧州に於ける父の雪辱を期待しつつ、このあたりにも注目したい。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)