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新規開業調教師が、13年前の悲劇的な出来事から学んだこととは……

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
2017年に開業した青木孝文厩舎の面々。中央が青木調教師だ。

新調教師、開業初年度の成績は……

 この正月を晴れがましい気持ちで迎えられなかった男がいる。

 青木孝文。

 昨年、2017年の3月に開業したばかりの調教師。1981年9月生まれの36歳で、現在、美浦で開業する98人の調教師の中で最年少だ。

 彼が初勝利を挙げたのは開業後5ヶ月も経とうかという7月30日。結局1年目の勝ち星は僅かに3つ。JRAに所属する193人の調教師のうち189位。リーディングトップの池江泰寿が63勝だからその差は60にも及ぶ。

 しかし、開業1年目の成績なんて、誰も似たようなもの。つまり、彼がすっきりした気分で正月を迎えられなかったのは、成績のせいばかりではない。

 青木がこの世界に入った直後に起きたある出来事。今はもういない1頭の馬とのエピソードが、その後の彼のホースマン人生の礎となり、今のモヤモヤした気持ちにもつながっている。果たして13年前に何が起きたのか? そして、今、何が起きているのか? ひも解いていこう。

美浦トレセンで報道陣の取材に応える青木孝文調教師。
美浦トレセンで報道陣の取材に応える青木孝文調教師。

競馬との出会い。そして海外を目指し、勝ちたいと思う理由

 群馬県前橋市で、共に会社員をする両親の下、生まれ育った。中学2年の頃、ゲームをきっかけに競馬を観るようになった。

 「父に頼み、初めて連れて行ってもらったレースが毎日王冠」

 アヌスミラビリスが勝った時というから96年の話だ。本物の競馬にすぐに魅了されたと続ける。

 高校卒業と同時に北海道浦河へ飛び、育成調教技術者養成研修を1年。その後、ビッグレッドファームで3年間、馬漬けの日々を過ごした。

 04年の春には牧場で携わっていたマイネルセレクトがドバイへ遠征。プライベートで応援に行った。

 「結果は5着でした。海外の競馬を初めて生で観て、いつか自分が世話をした馬で勝ってみたいと思うようになりました」

 そんなチャンスは6年後にやってきた。

 その頃になると美浦、伊藤正徳厩舎で調教厩務員となっていた青木。担当するネヴァブションが香港へ遠征することになったのだ。

 今は亡き後藤浩輝を背に、ネヴァブションは果敢に逃げた。しかし、結果は4着。レース直後、青木は次のように語っていた。

 「いつかまた海外へ挑戦し、その時は勝ちたいです」

 そして、勝ちたい理由を問うと、次のように続けた。

 「子供たちに父親は夢がある仕事をしていると教えたいです。いつの日か、『父ちゃん、G1を勝ってきたぞ!!』って報告したいんです」

10年、ネヴァブションと共に香港に遠征した青木。残念ながら4着という結果に「いつかは海外で勝ちたい」と誓った。
10年、ネヴァブションと共に香港に遠征した青木。残念ながら4着という結果に「いつかは海外で勝ちたい」と誓った。

担当馬を襲った悲劇的な出来事に、泣くだけで、忘れていたこととは

 さて、そんな夢をみせてくれたネヴァブションだが、青木が担当になるまでには紆余曲折があった。本来は別の馬を担当していたが、その馬がレース前日に歩様を乱し、取り消し。放牧に出されたことで、代わりに回ってきたのがネヴァブションだった。いや、そもそもその前の馬というのも、カナエカイウンという馬の代打で担当することになった馬だった。

 つまり、代打の代打。それがネヴァブションだったのだ。

写真はネヴァブションと共に香港に飛んだ時の若き日の青木。同馬を担当することになったのは、カナエカイウンとの悲しい出来事が始まりだった。
写真はネヴァブションと共に香港に飛んだ時の若き日の青木。同馬を担当することになったのは、カナエカイウンとの悲しい出来事が始まりだった。

 10年に香港へ飛んだネヴァブションだが、最初に入厩したのは05年の話である。青木がトレセンで働き出して間もない頃だ。だからその2頭前に担当したカナエカイウンは「最初に与えられた担当馬だった」と言う。

 「伊藤先生がいきなり良い馬を担当させてくれました」と評するカナエカイウンで、障害の未勝利戦を勝利。約1カ月後には、重賞制覇を目指し、京都へ向かった。

 「カナエと一緒に馬運車に乗り、わくわくしながら京都競馬場まで行きました」

 うまくすれば復路の馬運車にはもっと弾ける笑顔も乗せて帰れると思っていた。しかし、結論から記すと、それはかなわなかった。それどころか、青木は馬運車で帰ることすら出来なかった。

 残す障害は僅か2つというところで、カナエカイウンはバランスを崩し転倒。帰らぬ馬となってしまったのだ。

 「1人、新幹線で帰ることになりました。本当に可愛い馬だったので、車内でも涙が止まらず、泣きに泣きました」

 あまりの悲しさに、一つ大切なことを忘れていた。そのことは現在の青木の調教師像を作ることになるのだが、それはおって記そう。

調教師試験に合格。再び海外へ飛んだ後、開業

 14年からは小桧山悟厩舎の調教助手となった。そして、カナエカイウンの悲劇から10年後の15年、5度目の受験となった調教師試験をついに突破した。

 開業前の16年には、矢作芳人調教師の好意もあり、厩舎スタッフとしてリアルスティールのドバイ遠征に帯同した。同馬がかの地で優勝するシーンを目の当たりにして、12年前に中東で感じた想いが再び強くなった。

 「自分の馬で、こういう場面を演じたいと改めて思いました」

16年、ドバイターフを優勝したリアルスティール。青木は矢作芳人調教師(右から2人目の紫帽)の好意で、スタッフとして帯同していた。
16年、ドバイターフを優勝したリアルスティール。青木は矢作芳人調教師(右から2人目の紫帽)の好意で、スタッフとして帯同していた。

 しかし、17年の開業後は、厳しい現実の壁が立ちはだかった。1年目、思うように勝てなかったことは冒頭に記した通りである。

13年前に学んだことから目指すべき所とは

 さらに、年も押し迫った12月9日、事件は起きた。

 この日の新馬戦に管理馬を送り込んだ。その馬は4コーナーで急に外側へ逸走すると、手綱をとっていた吉田豊が馬場へ放り出された。最悪の事態こそ免れた吉田だが、軸椎骨折の重傷を負ってしまった。

 「申し訳ない限りです」

 そう語り、入院先に日参した青木は、競馬界に入ったばかりの頃に起きたあの出来事を思い出していた。

 「カナエカイウンが予後不良となった時、馬が可哀そうという気持ちばかりで頭が一杯になり、ジョッキーに考えが及びませんでした。光希(カナエカイウンに騎乗していた金子騎手)に、後から『すみませんでした』と謝られて、自分の愚かさを痛感しました」

 以来、事故が起きた際には「まず人」に対し心配するようになり、「いつか光希を乗せて大きなレースを勝ちたい」と考えるようにもなった。

05年、カナエカイウンに騎乗した金子光希騎手(右)と共に大きなレースを勝ちたいと語る青木。
05年、カナエカイウンに騎乗した金子光希騎手(右)と共に大きなレースを勝ちたいと語る青木。

 不幸中の幸いなことに、騎手として復帰できるという吉田を想い、青木は言う。

 「復帰した暁には、一緒に勝てるような良い馬に乗ってもらえる様、頑張ります」

 怪我をしたまま年を越した吉田を想うと、新年を祝う気にもなれないという青木。いつの日か、その吉田や金子を乗せて大レースを勝つ。そして、それを子供たちに報告する。そんな未来が待っていることを願いたい。

13年前の「あの出来事に己の愚かさを思い知らされた」と語る青木。当時の経験から学んだことを今後、生かす事が大切だ。
13年前の「あの出来事に己の愚かさを思い知らされた」と語る青木。当時の経験から学んだことを今後、生かす事が大切だ。

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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