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復帰後僅か13分で訪れた悪夢…。逸材・宮市亮、25歳にしてキャリア最大の危機に立ち向かう

安藤隆人サッカージャーナリスト、作家
宮市亮・高校2年生。海外を夢見て泥だらけになっていた男の物語はまだ終わらない。

「こんなことがあっていいのか…」。

私は飛び込んで来たニュースを見て愕然とした。

宮市亮、右膝を再び負傷。前十字靭帯断裂の可能性も―。

ドイツ2部のザンクトパウリに所属する宮市にとって4月28日は重要な復帰戦だった。昨年6月に右膝前十字靭帯断裂の大けがを負い、1年近くに渡るリハビリの末、この日行われたU-23チームの公式戦で実戦復帰を果たした。

しかし、開始僅か13分で負傷退場。ただの怪我ではなく、右膝前十字靭帯断裂を繰り返してしまった可能性が出て来てしまった。

===緊急帰国をして膝の検査、治療と…===

5月3日の報道によると、宮市は相当な精神的ショックを受けており、7日に緊急帰国をして膝の検査、治療だけでなく精神的なケアも行われる見通しであると伝えられた。

精神的なショック。これは私だけでなく、多くのサッカーファン、関係者が一番懸念していることだろう。

ちょうどNumberWebの連載で宮市同様に3度の前十字靭帯断裂から復活し、Jリーグの第一線でプレーするコンサドーレ札幌のMF深井一希のコラム(http://number.bunshun.jp/articles/-/830645)を掲載した直後のニュースだっただけに、ショックはより大きかった。

5年半で3度の怪我を負った深井に対し、宮市のケースはたった3年間で3回。ほとんど復帰して満足の行くプレーが出来ていないまま、怪我を繰り返していることになる。怪我をしてからリハビリを重ねる間に自分自身と真正面から向き合い、自問自答の中で新たに見えて来たものがあるにも関わらず、それをピッチ上で表現する前に再び奈落の底に落とされる。しかも3回連続で…。

簡単に「復活して欲しい」という言葉を出せないほど、彼の心に伸し掛かるものは大きい。もし今、彼が目の前にいたら、私は正直なんて言葉を掛けたら良いのだろうかと迷い、その場で固まってしまうだろう。

今、私が出来ること。それは誰よりも取材を重ねて来た彼の高校時代、海を渡った直後のやり取りなどを記して、彼の純粋でまっすぐなサッカー愛と向上心、そして素晴らしい人間性を改めてサッカーファンに伝えたい。その一心でこのコラムを書くことを決めた。

===中学時代に触れた海外。U-17W杯でさらに想いが深まる===

愛知県で生まれ育った宮市亮は、アスリート一家に生まれ、ずば抜けたスピードは小学生の頃からかなり際立っていた。そんな彼が初めて海外に触れたのが、中学1年のオランダ留学だった。

中学1年から中学2年に進級する前の春、奇しくも後に所属チームとなるフェイエノールトの育成組織の練習に約2週間参加。ここで宮市は自慢のスピードを惜しげもなく披露し、関係者の目を引いた。

「昔からぽわーんとした感じで海外意識あって(笑)、ずっと海外でプレーしたいと憧れていたんです。実際にオランダに行って、『やっぱり僕はこうした環境でやりたいんだな』と確認することが出来た。漠然としたものから、明確な目標に変わりました」。

中学生の彼にとってオランダは刺激的な場所だった。ここから「自分の武器であるスピードをより磨いて、トップスピードで何でも出来る選手になりたい」と、さらに目を輝かせて毎日サッカーに没頭をした。

そして、地元の中京大中京高校に進むと、高2のときに宇佐美貴史(現・フォルトナ・デュッセルドルフ)、柴崎岳(現・ヘタフェ)、杉本健勇(現・セレッソ大阪)らと共にナイジェリアで開催されたU-17W杯に出場。結果は3戦全敗で終わったが、ネイマール(現・パリ・サンジェルマン)、コウチーニョ(現・バルセロナ)を擁するブラジルと戦うなど、さらに刺激的な経験を積んだ。

「ナイジェリアでは世界との真剣勝負で、改めていろいろ学ばされました。向こうの選手は本当に気持ちでぶつかってくる。それに対して僕たちは本当に甘いなと思いました。プレーでいうと球際だったり、ちょっとした1対1の攻防だったり。ちょっとしたところだけど、ボールに対する執着心が全然違った。そこが上手い・下手の大きな差になると痛感しました。自分なりになぜここまで違うのかを考えてみたのですが、向こうの選手は『サッカーで飯を食う』、『サッカーで這い上がる』という強烈な目的意識を持って、サッカーにすべてを懸けている人たちばかり。でも日本はそういう気持ちでやっていない人が多いと感じるんです。日本は食事も、生活も不便がなくて、どうしても甘えてしまうけど、向こうの選手は本当に貪欲さがあって、『世界大会で自分を(世界中のスカウトに)見せたい』という気持ちが強烈に出ていました。僕もそういう気持ちを持ってプレーしていたつもりでしたけど、それが100%そうだったのかと言われると、まだ甘さがあったと思います。やるからにはとことんやりたい。そういう選手たちを見て、自分も掻き立てられましたね」。

これはナイジェリア帰国後に彼が目を輝かせながら話していたことだ。17歳の少年から放たれる言葉は、気力に満ちていて、その目は希望に満ちていた。

「スピードは誰にも負けない自信があるので、そのスピードをどんな条件下でもいかに発揮できるかだと思います。スピードは僕の生命線ですし、これを武器に世界で戦っていきたいと思っているので、もっと磨きをかけていきたいです」。

高校最後の全国高校サッカー選手権大会の開会式で、同い年でU-17W杯を戦った中である柴崎岳(現・ヘタフェ)と小島秀仁(現・ジェフユナイテッド千葉)とのスリーショット。
高校最後の全国高校サッカー選手権大会の開会式で、同い年でU-17W杯を戦った中である柴崎岳(現・ヘタフェ)と小島秀仁(現・ジェフユナイテッド千葉)とのスリーショット。

===夢の海外でのプレー。慎重な意見との狭間に悩んだ===

高2から高3に掛けて、彼は具体的なアクションを起こした。ドイツ、イングランド、オランダに渡って、ケルン、アーセナル、アヤックスなどの名門クラブの練習に参加。その過程でアーセン・ベンゲルの目に留まり、正式な獲得オファーを受けるまでになった。

しかし、その当時、彼は人生の岐路に立たされていた。それは『海外か、国内か』の2つの選択肢のどちらを取るかだった。海外への憧れは強いが、その一方で「Jリーグで数年やってから海外に行っても遅くはないのではないか」という声も彼の耳に入っていた。

チャレンジしたい気持ちがあるが、Jリーグ経由という『着実な道』を進める大人の意見もよく理解していた。

ちょうど悩んでいる最中に、私は彼とじっくり話をした。今でも忘れもしない、2010年3月の全国高校サッカー選抜大垣大会。赤坂スポーツ公園は前日の雨の影響もあり、ぬかるんだピッチコンディションだった。その中でも彼はユニフォームを泥だらけにしながら、得意のスピードで相手を切り裂くプレーを見せていた。

第一試合と第二試合の合間、私は彼とグラウンド脇のベンチに腰掛けて話をした。世間話をした後、話は進路に及んだ。

「物凄く悩んでいます。もちろんJリーグを経由して海外へ行っても遅くは無いんじゃないかという声も分かりますし、そうした方が良いと思います…。でもやっぱり僕は海外に行きたい。サッカーに貪欲で、すべてを懸けた環境でやりたいという気持ちが強いんです。夢と現実。どれを取るべきか、凄く迷っています」。

1時間は話しただろうか。話を聞いていると、彼の心は決まっているように見えた。だからこそ、「自分に正直に生きた方が良いよ。最終的には自分で決めて、その決断に責任を持てば良い」と彼に伝えた。

話の最後に彼は「やっぱり海外に行きたいです。もし、高卒で海外に行って試合に出られなかったり、苦しい時期が続いたら、『まだ早かった』と批判されるかもしれないけど、すべてを懸けるということはそういうことだし、向こうの選手達はそれを当たり前のようにやっていますから」と、覚悟を決めた表情でこう語った。

少年の決意は固かった。2010年12月、彼のアーセナル入りが正式発表された―。

2010年3月、岐阜の赤坂スポーツ公園にて、泥だらけのピッチで躍動する宮市亮。ただひたすらにボールを追いかけた後、彼はこのグラウンドの脇のベンチで苦悩を口にし、最後は力強く前を向いた。
2010年3月、岐阜の赤坂スポーツ公園にて、泥だらけのピッチで躍動する宮市亮。ただひたすらにボールを追いかけた後、彼はこのグラウンドの脇のベンチで苦悩を口にし、最後は力強く前を向いた。

=====高卒から海外へ。不退転の決意で海を渡る=====

不退転の決意で、彼は高校卒業と共に海を渡った。

就労ビザの関係で2011年1月にフェイエノールトに期限付き移籍すると、オランダの地で彼は躍動した。2月6日のエールディビジ第22節のフィテッセ戦でヨーロッパデビューを飾ると、これはヨーロッパ主要リーグの日本人最年少デビュー記録(18歳1ヶ月23日で公式デビュー)となった。さらに第23節のヘラクレス戦でゴールを決め、プロ初ゴールがヨーロッパの主要リーグで、これも日本人最年少得点記録を更新するものとなった。

「ロッテルダムの環境は本当にいいです。クラブの人はとても優しく対応してくれるし、サッカーに集中できる環境を作ってくれます。ここでしっかりと自分を磨いて、エミレーツスタジアムに立ちたい」。

このシーズン、リーグ12試合に出場して3ゴールをマークし、2011年8月にはアーセナルに復帰。ここから更なる輝かしいキャリアが刻まれる…はずだった。

しかし、ここから怪我との厳しい戦いが待っていた。高校時代も中足骨を骨折するなど怪我はあったが、そこから復帰をしてさらに進化したプレーを見せていた。だが、ヨーロッパでキャリアを積むにあたって、彼にとって何度も試練として立ちはだかる存在となってしまった。

2011年はフェイエノールトでプレー。ヨーロッパの日本人記録を次々と塗り替え、ロッテルダムは『リオフィーバー』となっていた(※オランダでは『リョウ』と読めず、『リオ』になっていた)
2011年はフェイエノールトでプレー。ヨーロッパの日本人記録を次々と塗り替え、ロッテルダムは『リオフィーバー』となっていた(※オランダでは『リョウ』と読めず、『リオ』になっていた)

===移籍と怪我を繰り返す苦難の道===

2012年1月にボルトンに期限付き移籍をし、プレミアリーグ第25節のウィガン戦で日本人最年少(19歳1ヶ月28日)となるプレミアリーグデビューを飾った。

ついにプレミアでのキャリアをスタートさせたが、4月に右肩負傷をし、同年11月に右足首靭帯損傷、2013年3月にはまたも右足首靭帯損傷を負ってしまった。

2013年7月22日。アーセナルは豊田スタジアムで名古屋グランパスと親善マッチをした。この試合、凱旋出場を果たした宮市は、PKを決めるなど、スタジアムを沸かせたが、試合後のミックスゾーンでの淡々と質問に答えた後に、彼と2人で話をすると、表情はみるみるうちに苦悩が浮かび上がって来た。

「自分でも戸惑っています…。コンディションは…正直…あまり戻ってきていないというか、何でなのか分からないというのはあるのですが…。走れていなかったし、ずっと怪我をして動けていなかった分、自分が思っている以上に心肺機能が落ちているなと、インドネシアから(ワールドツアーが)始まってずっと思っていた。でも、そんなことは言っていられない。今の自分のチームの中の立ち位置はそんなことを言っていられる状況ではないので、がむしゃらにやらないといけない」。

地元への凱旋の喜びとは裏腹に、自身の状況に対する強烈な危機感と大きな戸惑いを隠し切れなかった。若干20歳の若武者にのしかかった試練が、今どれほど大きいものであるかが、手に取るように分かった。

同時に自分の中で湧き出てきそうな弱さを必死で抑え込みながら、「このままで絶対に日本には帰らない」という覚悟も感じたー。

===アーセナルでチャンピオンズリーグ、プレミアデビューを果たすも…===

それでも2013年9月にチャンピオンズリーグ本戦デビューを果たし、どう尽きにアーセナルでのプレミアデビューを果たしたが、それ以降はリーグに出場出来ず、2014年3月に左足ハムストリング損傷。その後、オランダのトゥウェンテに移籍し、2015年6月にブンデスリーガ2部のザンクトパウリにフリーで加入した。

そして、前述したように2015年7月にアキレス腱痛で離脱を強いられ、その直後に一度目の前十字靭帯断裂を負い、今、3度目の悪夢が彼に襲いかかろうとしている(そうではないことを心から願うが…)。

宮市亮よ、どうかくじけないでくれ―。

「自分の突破力がどこまで通用して、自分がどこまでやれるのかを基準にしてヨーロッパにやって来ましたし、絶対にのし上がってやろうという気持ちでここに来ました」。

2011年にフェイエノールトのホームスタジアムで彼は屈託の無い笑顔でこう語ってくれた。

「プロである以上、小さい子供たちに夢を与えたいんです。僕も小さいころにプロ選手に憧れて、『こういう選手になりたい』と思ってサッカーに打ち込めた。僕もずっと憧れていたヨーロッパの舞台で、そういう立場になれるように頑張りたいんです。今の僕はまだまだ夢を与えられる存在にはなっていないと思うので」。

神様は乗り越えられる者にしか試練を与えない。どんなときも前を向き続け、不退転の決意で渡ったヨーロッパで人生を積み重ねている彼だからこそ。

無責任な発言かもしれないが、私は再びピッチで疾風のように駆け抜ける宮市亮が見たい。その姿を見せた時、間違いなく子供達はこう思うだろう。

「宮市選手のように何度でも困難から立ち上がれる強さを持った選手になりたい」と―。

まず今は心を休めて欲しい。人の温かさを感じて欲しい。すべては前進するパワーを漲らせるために…。

プロとして海を渡ろうとする少年の目は輝いていた。その目の輝きは今も色褪せない。宮市亮はいつまでも純粋なサッカー小僧だ。
プロとして海を渡ろうとする少年の目は輝いていた。その目の輝きは今も色褪せない。宮市亮はいつまでも純粋なサッカー小僧だ。
サッカージャーナリスト、作家

岐阜県出身。大学卒業後5年半務めた銀行を辞めて上京しフリーサッカージャーナリストに。ユース年代を中心に日本全国、世界40カ国を取材。2013年5月〜1年間週刊少年ジャンプで『蹴ジャン!SHOOT JUMP!』連載。Number Webで『ユース教授のサッカージャーナル』を連載中。全国で月1回ペースで講演会を行う。著作(共同制作含む)15作。白血病から復活したJリーガー早川史哉の半生を描いた『そして歩き出す サッカーと白血病と僕の日常』、カタールW杯27試合取材と日本代表選手の若き日の思い出をまとめたノンフィクッション『ドーハの歓喜』が代表作。名城大学体育会蹴球部フットボールダイレクターも兼務。

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