【ハッケン!土浦まち歩き】城下町・東崎周辺その2~東崎は「七人の侍」ならぬ「七人の百姓」が拓いた地?
城下町・東崎周辺のまち歩き2回目は、「東崎分」の中で最も桜橋に近い本町、七軒町の町のハッケンスポットをご紹介します。
そもそも東崎分はどこを指す?
東崎を紹介するといっているのに、本町や七軒町といった町名が登場して「なんのこっちゃ」と思う方がいらっしゃるかもしれません。というのも現代の土浦には「東崎町」という区域があって、東崎といえばその区画を指していると考えるのが当たり前なのです。
しかし、城下町として栄えた江戸時代は、土浦城の東側から北側一帯の地域を「東崎分」と呼んでいました。
「実は東崎分(とうざきぶん)って、すごく広いんです」と萩谷良太さん。東崎周辺のまち歩きを案内してくれる土浦市立博物館の学芸員さんです。
江戸時代の東崎というのは、大小6つの町組の総称です。旧町名を現在のエリア名に割り当てると次のようになります。
【旧町名→現在のエリア名】
本町・七軒町→中央一・二丁目
中町・鷹匠町→中央二丁目
築地町・横町・田町→城北町
東崎→東崎町
川口→川口一丁目
当時は中城分、東崎分にそれぞれに名主さん(町役人)がいて、城下の町組を統括していました。中城分は店がひしめきあう商都のメッカでしたが、対岸の東崎分は霞ヶ浦での漁や田畑をつくる人たちも多く住まう地区。
東崎分の特徴を教えてもらったところで、いよいよまち歩きスタートです。
萩谷さんが肩に提げたトートバッグには土浦の絵図などの資料がいっぱい。城下町として、そして水運の町として栄えた時代と照らし合わせながら歩くといたしましょう。
商工会議所は、元は大名や公家をもてなす大豪邸だった!
東崎分のメインとなる地域が本町。本町通りを中心に現在も呉服店や蕎麦屋、料亭などが点在する賑わいのあるエリアです。
中央一丁目の交差点から本町通りに向かって歩いてすぐのところに土浦商工会議所が建っています。ここが今回のハッケンスポット第一弾だと、足を止める萩谷さん。
萩谷さん:ここは元々大塚甚左衛門(おおつかじんざえもん)さんの住まいだった場所なんです。大塚家は東崎分を統括する名主を務めていて、問屋業を担っていたといいます。江戸時代、大塚家は「本陣」と呼ばれていて大名や公家、幕府のお役人が土浦にやってきたときの宿泊所にもなっていました。
城下町には大塚家のような本陣が存在していたそうですが、町を代表して身分の高い方々を迎え入れるにはそれ相応の広さや豪奢さも必要だったと推測できます。水戸街道の長い道のりを歩いて疲れた体をねぎらい、明日への活力を担うおもてなしの地。土浦の発展の立役者のひとつであったに違いありません。
東崎の歴史はここから始まった? 土浦最古のお堂「大日堂」
土浦宿本陣であった土浦商工会議所を右手に見て丁字路を右折すると住宅街に入り込みます。狭い道を迷うことなく直進する萩谷さん。いったいどこに向かっているのでしょう。
「ここは、東崎分に最初に住み始めた人たちが信仰していたというお堂です」と萩谷さん。住宅街の中に突如姿を現したのは「大日堂」というお寺で、土浦市街地で最も古いお堂ともいわれています。
萩谷さん:東崎は、7人のお百姓さんによって拓かれた地で、彼らが建立したお堂だと伝えられています。本町に位置付けられていますが、この辺りは、その昔は「七軒町」とも呼ばれていました。東崎分の始まりの地「東崎の起点」ともいえる場所なんです。
お堂が立てられたのは902年(延喜2年)と、今から約1000年以上もの前のことと伝わります。
お堂には大日如来が祀られていて、境内にも大日如来と記した石碑や神仏の石像が並んでいます。これらもきっと長きにわたって東崎の町の変化を見守ってきたのでしょう。
“大いなる日”を意味する大日の名を冠した如来様は、太陽を上回る光ですべてを照らすという意味があるそうです。
今日も東崎の町を明るく照らし、見守っていただけますように。
そんな願いを込めて合掌一礼を。