「名前の由来」「昔の写真」必要か? 2分の1成人式
■「感動」「涙」 その陰で・・・
「2分の1成人式」の開催を祝う報道が、増えてきている。まさにこの時期、全国各地の小学校で「2分の1成人式」が開かれている。10歳(小学4年生)の節目を祝う、新しいイベントだ。SNS上では、「涙が止まらなかった」「すごく感動した」などの声があふれている。
一方で、1カ月前のエントリー「考え直してほしい『2分の1成人式』」が、いまも多く読まれている。式の定番である「親に感謝の手紙をわたす」ことについて、被虐待児のケアに反するという視点から、式のあり方を批判的に問うたものだ。フェイスブックは2.3万のシェアを記録し、現在も数を伸ばしている。
■「たった10行、生まれたときの様子が書けない…」
「感動」や「涙」の怖いところは、それに陶酔して、当のイベントがもつ負の側面が見えなくなってしまうことだ。
「2分の1成人式」の問題は、「感謝の手紙」だけではない。他にも問題含みの「定番」がある。それが、「生まれた頃の写真」や「名前の由来」を披露するというものだ。
ここで、ある母親の声を聞いてほしい。
手紙には両開きのカバーがつけられて、記念の品になる流れだという。母親は、「嘘を書いてしまえば今はやり過ごせるかも知れません。でも、いつか真実を知った時の事を考えるとさらに傷つけてしまう」と不安を綴っている。
子連れの再婚が珍しくない時代、家族の多様化が進む時代、「保護者に子どもの過去のことを問えば、すぐに答えが返ってくる」という発想からは、脱する必要がある。
■「これは辛い。果てしなく辛い。」
被虐待児にとっては、親への感謝も辛いが、過去を振り返ることもまた同様に苦しい作業だ。過去に虐待を受けたというブロガーは、こう記している。
家族生活の過去を根掘り葉掘り聞き出す。この営みは、おおむね過去が幸せだと思える人であれば、素敵な物語を編むよい機会となるだろう。だが、被虐待児にとってはただの苦行である。
■家庭背景を問わない「2分の1成人式」へ
きっと学校側は、「(離婚も再婚もなく)実父母が子どもをずっと大事に育ててきたはず」という前提を暗黙にもっているのだろう。「感動」と「涙」がそれをさらに強固なものにしている。でも、そういった前提は、もうそろそろやめにしてはどうだろうか。
学校教育というのは、じつは、子どもの家庭背景を問わない場として設計されたものだ。江戸時代の身分制度を脱して、明治時代に今日につながる学校教育制度がつくられた。学校は、生まれ(家庭背景)に関係なく子どもが平等に学べる空間として、誕生したのであった。
それが、なぜいまになって、家族に回帰しようとするのか。しかも、多様性は認めない、被虐待児の存在も気にかけない、というやり方で。じつに単純な家族モデルでの回帰だ。
1カ月前のエントリー以降、「うちの学校では、『2分の1成人式』はやるけど、家族とは切り離して実施している」という先生の声をいくつか聞いた。私が知る校長先生は、エントリーを読んで、「家族のことには、ふれないほうがよいのでは」と4年生担任に提案してくれた。
ウェブ上には、配慮の行き届いた指導計画も公開されている。だから、少しだけ立ち止まって考えてほしい。それだけで、救われる子どもや保護者がたくさんいるのだから。
※1か月前のエントリー(「2分の1成人式」に関する記事1作目。今回の記事は2作目)