習総書記「核心化」は軍事大改革のため――日本の報道に見るまちがい
習近平総書記を「核心」と称することに関して日本の多くの報道がまちがった分析をしている。軍事改革は旧ソ連式からアメリカのような大統領権限を総書記が持つ形にし即戦力を重視。結果、一極集中化が不可欠なのだ。
◆「核心」を強調し始めたのは軍事大改革のため
今年1月2日付の本コラム「中国、軍の大規模改革――即戦力向上と効率化」で、中国が人民解放軍に関して大規模改革を行なっていることをご紹介した。
この改革は中国共産党の軍隊が誕生した1927年8月1日以来はじめて行なわれる抜本的な大改革で、建国以来(1949年10月1日以来)という視点でも、もちろん初めてのことである。
中国共産党の軍隊が誕生したとき、共産党は「中華民国」という国家の中に「中華ソビエット共和国」という国家を建設していた(詳細は『毛沢東 日本軍と共謀した男』)。したがってこのとき誕生させた軍隊は「中国工農紅軍」と呼ばれ、「ソ連紅軍」の指揮下にあったので、これまでの中国人民解放軍は構造においても命令指揮系統においても、すべて「ソ連式」なのである。
1991年末にソ連が崩壊した後の90年代、IT化とグローバル化の波により、科学技術も飛躍的に発展しただけでなく、世界情勢も大きく違ってきた。
そこで中国の軍隊も、「ソ連式」から脱皮して「アメリカ式」あるいは「ヨーロッパ式」に転換すべく、今般の軍事大改革に至ったのである。
最大の変化は、中国人民解放軍にもともとあった「総参謀部、総政治部、総装備部、総后勤部」を撤廃し、中央軍事委員会主席(=中共中央総書記)をトップとした軍事委員会の下に、直接「7つの部&庁(6つの部と1つの庁)、3つの委員会、5つの直属機構」を設置して、軍事委員会そのものに軍事指揮権を与えたことだ。結果、中央軍事委員会主席(=中共中央総書記・習近平)が最高司令官になった。
同時に即戦力を高めるため、7つの軍区を撤廃して5つの戦区(東部・南部・西部・北部・中部戦区)を設置。
「いざというとき」には、習近平・中央軍事委員会主席(=中共中央総書記)が直接指令を下せば戦区と軍種(陸海空軍+ロケット軍+戦略支援部隊)が動くという形にしたため、軍人すべてが「中央軍事委員会主席(=中共中央総書記)」を「核心」的指導者として位置づけていないと軍は乱れる。特に軍事改革により、もとの軍区の司令官から外された者が既得権益にしがみついて反乱を起こさないとも限らない。なんと言っても彼らは軍を指揮していた者たちだ。
そのため「以習近平総書記為核心的(習近平総書記を核心とした)」という枕詞が使われるようになったのである。
この言葉を以て、日本のメディアや一部の中国研究者は、「習近平が個人崇拝を煽っている」とか「胡錦濤には“核心”という言葉を付けて称したことがない」とか、はなはだしきに至っては「集団指導体制は胡錦濤のときから始まった」など、もうあまりに現実を無視した分析を拡散させているので、まちがいを指摘し、注意を喚起したい。
◆「核心」という言葉は胡錦濤総書記(国家主席)に対しても使われていた
たしかに、毛沢東、トウ小平、江沢民に対してそれぞれ第一世代、第二世代および第三世代指導集団の「核心」と称していた。
これは文革が終わったあとに、国家主席にも中国共産党中央委員会(中共中央)総書記にもなったことがないトウ小平が自分の位置づけに困り、思いついた呼称である。
毛沢東時代には文化大革命(1966年~76年)があって、その間、毛沢東は「国家主席は必要ない」として国家主席(劉少奇)という職位を空席にしたまま、自分自身が最高指導者として君臨した。毛沢東逝去後も、改革開放が始まるまで臨時的に中共中央主席や国務院総理などを置いたりしたので、毛沢東が生きていた時代と、その後トウ小平が改革開放を進めている時代を区分するために、毛沢東時代を「第一世代指導集団」、トウ小平が君臨していた時代を「第二世代指導集団」と位置付け、その「核心的人物」を、毛沢東およびトウ小平としたのである。いや、そうするしかなかったのである。
それは1989年6月4日に起きた天安門事件で失脚した「胡耀邦や趙紫陽の時代」を明示しないことに役だったし、また文化大革命で獄死させられた「劉少奇・国家主席時代」に触れることを避けるということにも役立った。
ここで重要なのは、あくまでも「曖昧模糊(あいまいもこ)とさせること」が、「核心」という言葉を思いついた理由であり目的だったということである。
江沢民が途中から中共中央総書記(1989年)になったり国家主席(1993年)になったりしたのは、これもまた天安門事件のせいだったので、江沢民に関しても「核心」という言葉を使うのは、「天安門事件を明示させないため」だったのだ。
つまり「核心」という言葉は、中国政府にとって都合の悪い事実を「隠すため」あるいは「ごまかすため」に思いついた言葉なのである。
しかし、これが慣わしになってしまい、正常化された胡錦濤政権時代になっても、「核心」という言葉を胡錦濤国家主席(中共中央総書記)に対して使っている。
その証拠というか、例をお示ししよう。
たとえば、2010年4月21日に、中国政府の通信社「新華社」の電子版「新華網」の記事「胡錦濤総書記を核心とする党中央の地震救済実録」は、まさに「胡錦濤総書記を核心とする」と明記してある。
また、2011年06月23日の中華人民共和国工業・信息(情報)化部(MIIT)のウェブサイトは、「胡錦濤同志を核心とする指導集団(領導集体)」というタイトルの情報を報道している。中央テレビ局CCTVではかつて「以胡錦濤総書記為核心的」(胡錦濤総書記を核心とした)という言い方を慣例のように使っており、筆者の耳にも「音」として残っている。
◆集団指導体制は1927年から始まっている
日本のメディアや一部の中国研究者は、「集団指導体制」が胡錦濤政権時代から始まったというニュアンスで書いている。
これはひょっとしたら、筆者が『チャイナ・ナイン 中国を動かす9人の男たち』で、胡錦濤政権を例にとって「集団指導体制」とは何かをしつこく説明したせいかもしれないと、申し訳ないと思うと同時に、責任を感じてしまうので解説する。
集団指導体制は、1927年4月27日から5月9日まで(湖北省の)武昌で開催された中国共産党第五回全国代表大会で中国共産党中央委員会(中共中央)政治局常務委員会が発足し、6月1日に党規約に明記されたときから始まっている。
きっかけは同年4月12日に「四・一二反革命政変」と中共側が呼ぶ事件が起きたからだ。
日本では一般に「上海クーデター」と呼ばれているもので、中共勢力が政権を奪取しようとしていることに気がついた蒋介石が行なった武力弾圧である。これにより惨敗した中共側は全国を統一的に統治すべく、意思決定のメカニズムを構成し、党の強化を図った。
7月に、モスクワにあるコミンテルン執行委員会の指示により、「5人」の政治局常務委員を決定し、「多数決議決による集団指導体制」を誕生させた。
1928年6月18日から7月11日までモスクワで開催した第六回党大会でも、やはり「5人」の政治局常務委員が選出されている。
「5人」という奇数であったのは、多数決議決の際に意見が半々に割れるのを避けるためである。
これは胡錦濤政権時代の「チャイナ・ナイン」(9人)と、習近平政権の「チャイナ・セブン」(7人)と同じ構造であり、同じ理由から「奇数」なのである。
このことから見ても、いかに「集団指導体制」が1927年から重んじられていたかが、お分かりいただけるものと思う。
ただし、毛沢東が文化大革命を発動した時には、国家主席さえ存在させなかったくらいだから、この機能は破壊されている。
筆者が『チャイナ・ナイン』に関して反省することはまだある。
胡錦濤政権時代、江沢民の権力への執着が強烈で激しい権力闘争が展開されていたことを描き過ぎたのかもしれない。そのため「権力闘争」という概念があまりに強く日本のジャーナリズムあるいは中国研究者の一部に植え込まれてしまったのか、習近平政権では状況が全く異なるというのに、何でも権力闘争に結び付けて解説すればいいという誤解を招いてしまっている。
習近平自身は江沢民が推薦し、江沢民を後ろ盾として国家主席にまでのし上がった人間だ。胡錦濤政権とは中共中央政治局常務委員会における構成メンバーがまったく異なる。
習近平政権が行っている反腐敗闘争などは、あくまでも「一党支配体制が崩壊するのを防ぐため」であり、権力闘争などをしているゆとりはないことを、ついでながら、反省を込めて書き添えたい。
今般の「習総書記の核心化」を「個人崇拝のため」などと誤読していたら、「権力闘争という誤読」以上に日本には非常にマイナスの影響を与える。そのような国内事情ではなく、「他国との有事」に備えた(戦争はしないまでも)「戦闘準備」であることを見逃してしまうからだ。その意味で誤読は罪作りであり、日本の外交戦略を読み誤らせる。
なお軍事大改革は、東シナ海や南シナ海問題を睨んではいるが、中国が「軍事力」に関して最も気にしているのは北朝鮮問題と台湾問題であることを忘れてはならない。