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タッチの差で地獄を見た、バーク・ウィルズ探検隊

華盛頓Webライター
credit:unsplash

オーストラリアは長い間、開拓者の間では未開の地として捉えられていました。

そのこともあって探検が盛んに行われるようになり、今回紹介するバーク・ウィルズ探検隊もその一つです。

この記事ではバーク・ウィルズ探検隊のクーパー・クリーク補給地からの軌跡について紹介していきます。

9時間の差で見た地獄

1861年4月21日の夕方、バーク、ウィルズ、キングの3人がクーパー・クリークの補給地にたどり着きました

彼らは過酷な探検の末、ようやく戻ってきたものの、そこで目にしたのは無人のキャンプだったのです。

補給隊を率いていたブラーエは、彼らが戻らないと判断し、その朝にクーパー・クリークを離れてしまいました。

運命のいたずらと言うべきか、バークたちはわずか9時間の差でブラーエ隊とすれ違ってしまったのです。

無情にも、彼らは補給地に埋められた食糧と手紙を手にし、ブラーエ隊が自分たちを待たずに発ったことを知りました。

疲労困憊の3人に、追いかける気力など残されていなかったのです。

こうして彼らは絶望的な状況下で次なる計画を立てます。

最寄りの人里、南オーストラリアの「マウント・ホープレス」へ向かうことを決意したのです

しかしその道のりは砂漠を越える過酷な240キロ。

果たして彼らにその力が残っているかどうか、答えは誰の目にも明らかでした。

それでも彼らはわずかな希望を抱き、補給地の木の根元に自分たちの状況を記した手紙を埋め、救助を期待して出発しました

だが、彼らは木に伝言を刻んだだけで、目印を変えることも日付を更新することも忘れていたのです

4月23日、彼らは絶望的な旅路に再び足を踏み入れたのです。

しかしすぐに荷物を積んでいた家畜が死に、3人は横断を諦めることとなりました。

一方で、ブラーエ隊はメニンディーへ戻る途中で、補給品を運んでクーパー・クリークへ向かうウィリアム・ライト隊と出会っています。

双方は協力し、2人の隊員がクーパー・クリークへ引き返してバークたちが戻っているか確認することになりました。

しかし、5月8日に彼らが到着した時、バークたちはすでにマウント・ホープレスへ向けて旅立った後だったのです。

木に刻まれた目印はそのままであり、彼らは埋められた手紙や食糧を確認することもなく、バークたちが戻らなかったと判断しました。

その頃、ウィリアム・ライトの隊も深刻な問題を抱えていました

資金と家畜の不足でクーパー・クリークへ出発できたのは1月末。

それまでに時間がかかりすぎたため、彼の行動がバークとウィルズの運命を決定づけたとも言われています。

彼の隊も厳しい旅路に苦しみ、途中で3人の隊員が命を落としたのです

酷暑と水の欠乏、さらには現地の先住民との軋轢が、彼らの進行をますます遅らせました。

こうして、バーク、ウィルズ、キングの3人は、たった9時間の差で救助を逃し、過酷な砂漠での孤立無援の旅に向かっていったのです

彼らの運命はすでに絶望的だったものの、その姿には人間の限界に挑む、どこか切なくも壮大な物語が隠されていたのです。

参考

アラン・ムーアヘッド、木下秀夫訳(1979)『恐るべき空白――死のオーストラリア縦断』、早川書房

Webライター

歴史能力検定2級の華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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