タッチの差で地獄を見た、バーク・ウィルズ探検隊
オーストラリアは長い間、開拓者の間では未開の地として捉えられていました。
そのこともあって探検が盛んに行われるようになり、今回紹介するバーク・ウィルズ探検隊もその一つです。
この記事ではバーク・ウィルズ探検隊のクーパー・クリーク補給地からの軌跡について紹介していきます。
9時間の差で見た地獄
1861年4月21日の夕方、バーク、ウィルズ、キングの3人がクーパー・クリークの補給地にたどり着きました。
彼らは過酷な探検の末、ようやく戻ってきたものの、そこで目にしたのは無人のキャンプだったのです。
補給隊を率いていたブラーエは、彼らが戻らないと判断し、その朝にクーパー・クリークを離れてしまいました。
運命のいたずらと言うべきか、バークたちはわずか9時間の差でブラーエ隊とすれ違ってしまったのです。
無情にも、彼らは補給地に埋められた食糧と手紙を手にし、ブラーエ隊が自分たちを待たずに発ったことを知りました。
疲労困憊の3人に、追いかける気力など残されていなかったのです。
こうして彼らは絶望的な状況下で次なる計画を立てます。
最寄りの人里、南オーストラリアの「マウント・ホープレス」へ向かうことを決意したのです。
しかしその道のりは砂漠を越える過酷な240キロ。
果たして彼らにその力が残っているかどうか、答えは誰の目にも明らかでした。
それでも彼らはわずかな希望を抱き、補給地の木の根元に自分たちの状況を記した手紙を埋め、救助を期待して出発しました。
だが、彼らは木に伝言を刻んだだけで、目印を変えることも日付を更新することも忘れていたのです。
4月23日、彼らは絶望的な旅路に再び足を踏み入れたのです。
しかしすぐに荷物を積んでいた家畜が死に、3人は横断を諦めることとなりました。
一方で、ブラーエ隊はメニンディーへ戻る途中で、補給品を運んでクーパー・クリークへ向かうウィリアム・ライト隊と出会っています。
双方は協力し、2人の隊員がクーパー・クリークへ引き返してバークたちが戻っているか確認することになりました。
しかし、5月8日に彼らが到着した時、バークたちはすでにマウント・ホープレスへ向けて旅立った後だったのです。
木に刻まれた目印はそのままであり、彼らは埋められた手紙や食糧を確認することもなく、バークたちが戻らなかったと判断しました。
その頃、ウィリアム・ライトの隊も深刻な問題を抱えていました。
資金と家畜の不足でクーパー・クリークへ出発できたのは1月末。
それまでに時間がかかりすぎたため、彼の行動がバークとウィルズの運命を決定づけたとも言われています。
彼の隊も厳しい旅路に苦しみ、途中で3人の隊員が命を落としたのです。
酷暑と水の欠乏、さらには現地の先住民との軋轢が、彼らの進行をますます遅らせました。
こうして、バーク、ウィルズ、キングの3人は、たった9時間の差で救助を逃し、過酷な砂漠での孤立無援の旅に向かっていったのです。
彼らの運命はすでに絶望的だったものの、その姿には人間の限界に挑む、どこか切なくも壮大な物語が隠されていたのです。
参考
アラン・ムーアヘッド、木下秀夫訳(1979)『恐るべき空白――死のオーストラリア縦断』、早川書房