『嫌われた監督』から考える、プロフェッショナルなチームの在り方とは
ぼくは、チームで仕事をしている時に、事あるごとに「ありがとう」と言われるのが好きじゃない。「ありがとう」と言うのも好きじゃない。
素直に「ありがとう」と口に出したほうが、メンバーと摩擦を起こさないはずだ。なぜ、自分はこんなややこしい考え方をしているのだろう。
その原点は『スラムダンク』に登場する湘北高校の姿にあった。
湘北のメンバーは、自分の勝利のために、自分の持ち場で、自分に求められる役割に徹している。誰かの見返りを求めて、戦っているわけではない。
それを象徴しているのが、物語としてのクライマックスでもある山王工業との試合での1シーンだ。キャプテンの赤木は最強の相手に一歩も怯まないチームメンバーを誇らしく思い、「ありがとよ」とこぼしてしまう。
その一言に対しての、メンバーの桜木や流川たちの返事がいい。「バカヤロウ!オレは自分のためにやってんだ!」「てめーのためじゃねえ!」「そう!自分のため!」「自分の勝利のためだ!」「何がありとうでい!」。
自分の理由で動くと「自由」。他人の理由で動くと「他由」。自由で動いている人に「ありがとう」はいらない。それぞれに戦う目的があり、それを完遂させるために最大限の準備をし、強い飢餓感をもって戦いに挑む。
スラムダンクのこのシーンが強烈に記憶に残っているため、「プロフェッショナルとは、こういうものだ」という想いが昔からある。
だから、ぼくは会社のメンバーにも「自立」を求める。
ぼくのためでもなく、会社のためでもなく、自分のために仕事をしてほしい。自分のやりたいことを成し遂げるために会社は存在していて、代表であるぼくの役割は、失敗しても安心して戻ってこれる居場所をつくることにある。
そして先日、スラムダンクの湘北のように、自分が目指したい姿だと思わされたチームの存在を知った。『嫌われた監督』という本で描かれていた、落合博満監督が率いた中日ドラゴンズだ。
感情的な繋がりではなく、勝利とそのための技術のみで繋がるチームの姿とは
この本は、スポーツ新聞の番記者として、落合監督を密着取材し続けてきた鈴木忠平さんが書いた一冊だ。鈴木さんをはじめ、様々な選手や球団のフロントマンの視点から、落合監督の実像に迫っている。
着眼点としておもしろいのは、星野仙一監督との対比だ。星野監督は選手たちを激しく叱りつつも、情に厚く、チームに血の結束を求めていた。試合中に感情を露わにする場面も多く、その熱情に選手もファンも「この人についていきたい」と惹きつけられていた。
一方、落合監督は試合中はベンチにじっと座ったまま、首をかしげ、勝っても負けても感情を表に出すことはなかった。ただ、監督の役割であるチームを勝利へ導くことに徹している。
勝つために必要なものは何か。それは、闘志や気迫といったものではなく、どんな状況でも揺るがない「技術」だと落合監督は考えている。だから、選手に「頑張れ」と言わないし、怒鳴ることもしない。
そして、技術とともに、選手に求めるのが「自立」と「責任」だ。
言われたことをそのまま受け入れるのではなく、自分の頭で考え、自分で確かめる。そうしないと、本当の技術は身につかない。落合監督自身が、そうしたスタンスで技術を獲得し、どの球団でも活躍できる存在であった。
だから、選手に自分の考えを強要しない。判断は全て選手に委ねる。その代わり、責任は選手自身でとる。この考え方は中日のコーチ陣とも共有していて、「選手が聞いてくるまでは教えるな」と伝えていたそうだ。
「情」を一切排し、徹底的に「理」で動く落合監督。
こういう風に書くと、落合監督は選手を突き放しているように感じるかもしれない。だが、技術だけを純粋に問うという落合監督の姿勢はシンプルで、選手は自分の技術を高めることだけに向き合うことができる。
落合監督の技術を見る目は鋭く、ごまかしはきかない。そこには恐ろしいプレッシャーが存在するし、プロ野球の世界を死ぬ気で生き残っていこうとする気概が求められる。
同時に、落合監督自身も、チームを勝たせ続けるために、あらゆるものを削ぎ落としていく。実情を知らない外野からの無数の避難に晒されながら、自分の信念をブレずに貫いていく。
監督と選手を繋いでいるのは、勝利とそのための技術のみ。感情的な繋がりは全くない。
だが、そこにはプロ同士だからこそ生まれた強い絆があり、落合監督とそれぞれの選手とのエピソードを読んでいると、どれも泣けてくる。
この本の最後のほうに書かれている、落合監督と荒木雅博選手との会話のシーンを引用したい。
結果的に、落合監督が率いた8年間で、ドラゴンズはリーグ優勝4回という成績をおさめ、最後の2年間は球団史上初となるリーグ連覇を成し遂げた。
チームの成功が自分の成功と繋がっていれば、「ありがとう」がなくてもモチベーションは下がらない。「ありがとう」を言葉にしないと、ギクシャクしてしまう関係性であるならば、それは自立ができていないメンバーの集まりであることの証ではないか。
ぼくは、『嫌われた監督』を読みながら、こういう関係を、自分が主宰するコルクスタジオのマンガ家達とも築いていきたいと何度も思った。
(筆者noteより加筆・修正のうえ転載)