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北方領土最後の「日本の痕跡」が消える 択捉島・紗那郵便局跡の取り壊しに思う

小泉悠安全保障アナリスト
択捉島の紗那郵便局跡(2013年に筆者撮影)

残された最後の痕跡

6月10日付『北海道新聞』(ロシア、紗那郵便局解体 北方領土・択捉島 「日本の証し」また消失)によると、ロシアは択捉島の紗那(ロシア名クリリスク)に残されていた日本時代の郵便局跡を解体した。

詳しくはリンク先の記事で解説されているが、この郵便局は1930年に建設されたもので、ソ連軍の侵攻を伝えた歴史的な遺跡でもある。

何より重要なのは、それがはっきりと分かる形で残されたほとんど唯一の日本建築であったことである。

同郵便局は、ソ連、そしてロシアによる占拠下でも2006年までは郵便局として使用されていたが、以前の記事「北方領土に行ってみた(1)」でも触れたように、2013年に筆者が択捉島を訪問したときには、すでに廃墟となって久しかった。

旧紗那郵便局遠景。屋根瓦が全て飛び、骨組みだけになっている(筆者撮影)
旧紗那郵便局遠景。屋根瓦が全て飛び、骨組みだけになっている(筆者撮影)
旧紗那郵便局近影。外壁等はまだしっかりしていた(筆者撮影)
旧紗那郵便局近影。外壁等はまだしっかりしていた(筆者撮影)

とはいえ、柱や外壁などはまだしっかりしており、今のうちに補修等の手当をすれば保存は充分に可能だと思われた。

そこへ来て今回のニュースであり、誠に残念というほかない。

それも丁寧に解体・保存してくれればまだしも、写真を見る限りで重機で破壊したらしく、二重に遺憾である。

それでも日本の痕跡は残る

ところで上の文章において、「はっきりと分かる形で残されたほとんど唯一の日本建築」という書き方をしたのには理由がある。

日本時代の建築の一部やその骨組み等をソ連が改修して住宅等に利用している例がかなりあると見られるためだ(これは「北方領土に行ってみた(2)」で触れたように、北方領土にコンクリート工場が無く、資材調達が極めて高コストとなることがその背景にあると思われる)。

それを実証するのが、毎日新聞社で北方領土取材を続けて来た本間記者の発見である(「択捉島:戦前の日本建築、現存確認は2棟目 屋根裏に新聞号外など40点」)。

ソ連時代の建築と思われていた択捉島の消防署が、実は日本時代に建設された建物であり、その屋根裏から当時をしのばせる様々な事物が出て来た、というニュースだ。

このように、はっきりとは分からなくても、知られざる日本時代の痕跡は今も北方領土のあちこちにひっそりと残っているに違いない。

何より救われるのは、これらを発見した建設会社が大事に保管した上で日本側へと引き渡してくれたことであろう。紗那の郵便局が破壊されたことは誠に残念であるが、北方領土に暮らす個々の人々には日本に対する敵対的感情は総じて薄く、また気性も温かな人々が多かったことは銘記しておきたい。

「屋根裏の発見」後日談

屋根裏からの発見物については、後日談がある。

北方領土訪問の翌年、都内で訪問団メンバーの懇親会があり、その場に筆者も出席した。

その際、件の本間記者が屋根裏から発見された様々なもの(主に小学校として使用されていた時代の手紙等)を一同に披露したところ、択捉島出身のある女性が、「これは、私の通っていた学校の校長先生の名前です」と、ある手紙の署名を指差した。

僻地といってよい紗那の小学校で、校長先生がいかに子供達をかわいがってくれたか、戦後ソ連人が入植して来たときにはいかに共存に心を砕いたかなどを、その女性は生々しく語ってくれた。

普段、筆者は北方領土問題についても軍事という観点から接することが多く、それゆえにどこか冷めた感覚を持ちがちであったが、期せずして飛び出した女性の体験談は、北方領土問題が過去と現在を繋ぐリアルな問題であることをまざまざと見せつけてくれた。

今回、北方領土から、日本の痕跡が一つ失われたことはたしかである。

しかし、そこに日本人が生きた証は、島のそこここに染み込むように残っているのだと思う。

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安全保障アナリスト

早稲田大学大学院修了後、ロシア科学アカデミー世界経済国際関係研究所客員研究員、国会図書館調査員、未来工学研究所研究員などを経て、現在は東京大学先端科学技術研究センター特任助教。主著に『現代ロシアの軍事戦略』(筑摩書房)、『帝国ロシアの地政学』(東京堂出版)、『軍事大国ロシア』(作品社)がある。

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