誰もが安心して話せる「対話」の場の作り方~ファシリテーターの経験から~
相手が何を考えているのか、話さなければわからないことが多い。自分の考えていることも、話すことでより伝わることが多い。
これが「対話」だ。
劇作家で、兵庫県豊岡市で「文化によるまちづくり」を進める平田オリザ氏は、著書「対話のレッスン 日本人のためのコミュニケーション術」で「対話」について、「異なる価値観のすり合わせ、差異から出発したコミュニケーションの往復に重点を置く。他人と交わす新たな情報交換や交流」と釈し、この本の解説を記した小説家の高橋源一郎氏は、「そのすり合わせの過程で、自分の当初の価値観が変わっていくことを潔しとすること、あるいはさらにその変化を喜びに感じることが対話の基本的な態度」としている。
いま、世の中に言葉は溢れているが「対話」が少ない(成立していない)と感じる。特にネットの世界では、自分の価値観を絶対視してしまいがちで、これでは価値観のすり合わせができるわけがない。
私は、政府や地方自治体が行う事業仕分けや有識者会議、市民会議など多様な場で数多くコーディネーター(ファシリテーター)を務めてきた。その中で上記と同様に「対話」に重きを置いてきた。
以下、自身の経験に基づくコーディネーターとして必要な考え方を紹介したい。
コーディネーターが目指すところは、
1.参加者の満足度が高まる(会議に参加してよかったと思える)こと
2.会議を開催する本来の目的を達成できること
の2点に集約される。
この2点が達成できない会議は質が高いとはいえないし、会議を開く前から達成できそうもないとわかるような場合は開催自体を見直した方がよい(そのようなことは実際にある)。
これを実現するために必要な要素は以下だと考える。
「安心して話せる空間」をつくる
行政が開く審議会などは、自由闊達でざっくばらんに話す雰囲気よりも、固い空気の中で、型にはまった話が続くものが多い。審議会に限らず多くの議論空間において、「こんなことを言ったら場違いに思われるのではないか」「少し違うと感じるけどこの場では賛同の意見を言うほうがいいのかな」など、建前論に終始する場面があるのではないだろうか。そのような会議から本質的な議論が生まれることは限りなく少ない(そもそも本質的な議論を期待するのではなくアリバイ的な会議があることも事実)。
特に市民との対話の場では、コーディネーターは建前論に終わるような雰囲気をつくってはいけない。その時々に感じたことを自由に発言してもらう。多少論点からずれていても構わない。コーディネーターは、その人が発言の中で何を最も伝えたいのか、どのような問題意識を持っているのかを考える。発言が終わった後に要約しながら、その人の言いたかったことを整理していく。この空気感がつくり出せると、どんどん本音が飛び交うようになる。飾らない言葉にこそ発言者の本当の気持ちが含まれている。コーディネーターは言葉の背景を読み取り、翻訳をする役割だと思う。
コーディネーターが役割を果たすためには、発言者の話をしっかり聴かなければいけないが、「傾聴する」のは決して簡単なことではない。話を聴きながらその人に向き合い、言葉の背景を考え続ける。同時並行で、ホワイトボードに論点を書き出すこともある。
これら一つひとつを積み重ねていくと、「何を言ってもコーディネーターがうまく拾ってくれる」という大きな安心感につながる。参加者が安心して本音の発言ができる環境づくりはコーディネーターの最も大きな役割であり、本質的で建設的な議論を可能にするための土壌となる。
会議後のアンケートで「話すのは苦手だけれど今日は思ったことを口に出すことができた」と市民参加者が書いてくれるケースがある。達成感がある瞬間だ。
「誰が言うか」ではなく「何を言うか」
「(委員の)○○協会の会長さんは影響力を持っているので少し気を遣ってください」「○○さんは少し面倒くさい人ですので注意してください」
私がコーディネーターを務める際、事務局となる行政職員からこのようなことを言われたことがある。しかし、私にとってそのような背景情報はあまり役に立たない。会議の場において、影響力の大きい人の意見が理屈抜きにすべてが正しいことにはならないし、他の場面で「面倒くさい」人がこの会議の場でも面倒くさいわけでもないからだ。
議論に参加する人たちは様々な背景(肩書き)を持っている。特に、構想日本が行う「自分ごと化会議」のように無作為に選ばれた人たちの所属はとても多様だし、肩書きを使って議論に臨んでいるわけでもない。そのような人たちの実感から出てくる飾らない言葉にこそ本質が表れる。つまり、背景ではなく言動に反応をするほうが物事はうまく運びやすい。だからコーディネーターは、いかにしてそうした言葉を引き出せるかが重要となる。
私がコーディネーターを行う際は、社長であろうが政治家であろうが学生であろうが、すべて「同じ目線」で議論するようにしている。それを印象付けるための手段の一つとして、すべての人を「さん」付けで呼んでいる。大学の先生でも政治家であってもだ。政府が行った事業仕分けでコーディネーターを務めたときも、「仕分け人」として参加していた国会議員をすべて「さん」付けで呼んでいた。
「誰が言うか」ではなく「何を言うか」を大事にすることは、参加者の満足度を高めるという目標を達成するためには必須の条件だろう。
「この空間は自分が仕切る」という強い心を持つ
コーディネーターはオーケストラの指揮者のようなものだと私は思う。コーディネーターが口火を切らなければ議論は始まらない。オーケストラは演奏が始まると仮に指揮者が突如いなくなったとしても演奏自体を続けることはできるかもしれないが、聴衆を魅了するようなものになることはまずないだろう。議論の場でも同じように、コーディネーターがいなくても一度スタートすれば話し合いは続くかもしれない。しかし、時間が経過しても論点や議論の方向性が定まらなくなると思う。コーディネーターは、単に進行するためにいるのではなく、論点の整理や明確化、新たな論点の提示など、議論の質を高めるために存在しているのだ。
音楽プロデューサーの中野雄氏は、著書「指揮者の役割―ヨーロッパ三大オーケストラ物語」で、指揮者に必要な資質として、1強烈な集団統率力、2継続的な学習能力、3巧みな経営能力、4天職と人生に対する執念、を挙げている。程度の差はあるがコーディネーターも近いところがあるように感じる。
例えば持論を展開し長く話す人に対して、その人の意を斟酌しながら遮る場合もある。また、次の論点に入る方がよいと考えたときに、いきなり議論を遮断するのではなく、連続性を持たせながら論点を移行していくなど、集団統率力が求められる場面は多い。
会場の空気をどうつくるかはコーディネーターにかかっている。必要なのは議論参加者だけでなく、行政職員、傍聴者など会場全体の一体感をつくることだ。議論終了後、自然に拍手が湧き起こったときは、場が一体となった証拠だ。これは最高にうれしい。
議論に加わっている当事者は、テンションが高くなる傾向にあるので、時には周りから「浮いた空間」となってしまうおそれもある。だからこそコーディネーターは、傍聴者など周囲の表情を見ながら「熱さ」と「冷静さ」を使い分ける必要がある。
場外からの不規則発言も出ることもある。そのようなときはコーディネーターが毅然とした態度でさえいれば、場が壊れることはほぼない。「この空間は絶対に自分が仕切る」という強い心も必要になる。私自身、27歳からコーディネーターを務めており、私より年上でキャリアがずっと上の人たちの中で行うことがほとんどだったが、中途半端な引け目を感じていては進行できない、というのが実感だ。
認識を共有できるよう動く
上記の空気づくりに加えて、会議の本来の目的の達成や、議論を通して課題を顕在化させるためにも、コーディネーターの役割は重要となる。
事業仕分けでのコーディネーターとして重要な役割の一つが、個々の事業をわかりやすく「かみ砕く」ことだ。事業の全体像を知ることは意外に難しい。そして、これを知らなければ、事業の課題も明確にならない。
全体像を議論参加者や周りで聞いている人が共有するためには、事業の内容をかみ砕いて示すことが必要になる。そのためには議論に連続性、ストーリー性を持たせながら展開するのが理想的だ。参加者がイメージを持ちやすいからだ。
議論参加者の特性がわかってくると、このタイミングで誰に発言してもらえば話が良い方に展開していくか、つまり最も本質に食い込めるかを考えて、挙手していない人を名指しで当てる場合もある。同じ人に繰り返し発言してもらうこともよくある。こうして論点が明確になり、事業の全体像が皆に共有されていくのを目の当たりにできるのは、コーディネーターの醍醐味ともいえる。
議論が進むと、参加者の認識にズレが出てくることもしばしばある。その場合は途中で議論を振り返り、論点の整理を行って場の共有を図る。ここで重要なのは、できる限りわかりやすい言葉で整理をすること。難しい言葉はわかったようでわからなくなることが多い、特に大人数の場で共有を図ろうとすると、言葉の意味の捉え方が区々になりやすい。例えば「先ほどのAさんの話は○○という趣旨になるかと思いますのでそれを踏まえると」などのように整理するコーディネーターの編集力が、会場全体が認識を共有できるかどうかを大きく左右することになる。
これらはコーディネーターが関わる際に、より成熟した「対話」にするための必要な要素と言える。ただし、考え方自体は、コーディネータのような第三者がいない場においても同様なことが多いだろう。
このような営みによって価値観のすり合わせを行っていきたい。