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なぜ企業は大学に高望みするのか

山口浩駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授

一部で話題になっているこの記事。

なぜ経団連会長は「大学は、理系と文系の区別をやめてほしい」と大胆提言するのか

経団連・中西宏明会長×経営共創基盤(IGPI)冨山和彦CEO 就活対談#2

文春オンライン2019/05/29

ここではまだ昭和が生きているようだ。今は平成も終わってもう令和なのだが。

※追記

報道によれば中西氏は現在体調不良で入院されているとのことで、お見舞い申し上げたい。

せっかくなので順番に。

中西 今の日本の学生や若い人たちを見ていて、これはちょっとまずいんじゃないか、と思っていることがあるんです。それは言いたいですね。 例えば、最低限のITリテラシーということになると、数学はちゃんとできていてほしい。

「数学」をどのレベルで想定しているかにもよるが、企業勤めを20年ほどした経験でいうと、つきあいのあった他社の方々を含め、仕事に必要なレベル(概ね小学校の算数程度というところが多いのではないか)を超える「数学」水準となるとかなり怪しい人が少なからずいたという印象がある。端的にいえば、学生に求めていることを既にいる社員さん方、さらには経営者の皆様はできているのか、学生のそうした能力を企業現場は見極め活かせているのか、という話だ。

中西 それから、やっぱり外国語。大学を出たんだから、得意でなくてもいいから、外国語が嫌い、というのはやめてよね、と。

同上。ついでにいえば、外国語が使える社員を採用したければ、最も簡単な方法はその外国語で採用面接を行うことだ。日本語と英語の両方が使える人材が欲しいなら両方でやればいい。大学生の外国語能力不足を嘆くくらいだから人事担当者は当然、外国語堪能なのだろう。なぜやらないのか。

日本人の英語能力についてはずいぶん昔に書いたことがあるが、要するに、日本の企業人の多くが英語を不得意としているのは、日常的に英語を使う必要性がなく、環境も整っていないからだ。中でも大学生のモチベーションのかなりの部分はよい就職にあるのだから、有力企業がこぞって英語での採用面接を行い、社内の公用語を英語にするなどすれば、日本の大学教育は即座に、がらりと様相を変えるだろう。

中西 でも、大学の人と話をすると、最近は高校から入ってくる人のレベルがそうなっていない、という。それはまじめに入試をやっていないからじゃないですか、と返すんですけど。

企業がきちんと選考していればそうした学生は入社できないだろう。そういう人が実際に企業に入社してくるというのであれば、つまり企業もまじめに選考してないということだ。たとえ理想的でなくても一定数の新入社員を採用しなければ企業が回らなくなる?それは大学も同じだ。

冨山 数学も英語もそうなんですが、ものを考えたり、ものを分析したりするときの、ある種の言語能力ですよね。その基礎的な言語能力というのは、別にどこに行こうが共通マターです。だから、高等教育までで、ちゃんとやっておくべきことは、そっちだと思うんです。

いわゆるウンチク学問っぽい教養は、その後でいいんじゃないか、と私は思っていまして。シェイクスピアがこう言ったとか、それもいいんだけど、英語もちゃんとできないのにシェイクスピアを語っている場合か、と思うわけです。

お得意のG型L型の話かと思うが、「英語もちゃんとできないのにシェイクスピアを語っている」学生というのが本当にいるとでも思っているのだろうか。非常勤も含めれば大学教員を20年近くやっているがこれまでそういう人には1人たりとも会ったことがない。それに、大学の学問を蘊蓄と揶揄するなら大卒採用をやめればいいと思うのだがなぜそうしないのか。

中西 その意味でいうと、ゆとり教育とか、それがとても歪んだ形で卒業生たちの水準の全体レベルを下げている面がありますよね。そのことに対する危機感は、かなり強烈にあります。

いわゆるゆとり教育は2011~13年に始まった新しい学習指導要領の下で否定され終わった、とされる。つまりこれから企業に就職する大学卒業者からはゆとり教育の影響がどんどん薄れていくはずだ。一方、ゆとり教育が提唱され、学習内容の削減が始まったのは1980年の学習指導要領の下だとされる。当時の学校教育を受けた子供たちは既に40代後半から50代あたりで、企業で幹部や経営者になっている人たちも多く含まれよう。つまりゆとり教育が問題だというなら、まず心配すべきは既に各社の中枢を担っている社員諸氏ということになる。

さらにいえば、ゆとり教育は教える内容の削減だが、それは学んだ結果としての生徒たちの能力が下がったということを必ずしも意味しない。ゆとり教育以前の教育において問題になっていたのは落ちこぼれであり、「七五三」(小学校では7割、中学校では5割、高校では3割の生徒しか授業の内容を理解していない)ということばすらあった。ゆとり教育はそうした反省から生まれたものだ。学力低下についてはいくつもの検証が行われているが、確たる結論を得ているわけではなく、平均的な学力は低下していないという研究もある。仮に一部調査が示すように学力低下があるとしても、それがゆとり教育の結果であると断言できるものではない。

中西 アメリカも地域によって違うんですが、小学校からの数学教育というのは、かなりやっているんです。小学校で算数の基本ができていないと許されない、とか。

いったいどこのアメリカなのか。2015年のPISAの数学的リテラシーにおいて日本は5位、米国は40位だ。ちなみに読解力だと日本8位、米国24位、科学的リテラシーだと日本2位、米国25位だ。

冨山 私がビジネススクールに行っていたのは、30年前です。スタンフォードはわりに理系的、ハイテクの学校だったこともありますが、

ファイナンスとか統計学とかコンピュータとか、理数系科目が多かった。

中西 マネジメントサイエンスはみんなそうでしょう。

冨山 いっぱい数学が出てくるんですよ。あと、ちょっとした微分なんかも出てくる。財務理論なんて、ちょっとした高等数学を使っています。ただ、私は文系でしたけど、数学はできたんです。東大の文系は数学ができると、かなり楽に入れますから。

ビジネススクール入学の際に求められるGMATにおいて、日本人はまず数学の得点を上げることが合格の秘訣とよくいわれるが、それは日本人が米国人などと比べて平均的には数学が得意だからだ。私が受験したのは冨山氏よりややあとで、当時はGMATも今とはしくみが違うので一概に比較はできないが、やはり数学は日本人であればあまり苦労しないといわれていた。「小学校からの数学教育」を「かなりやっている」とされるアメリカ人の同級生は総じて日本人より数学が不得意だった(比較的仲良しだったアメリカ人は分数の掛け算ができなかったがあれはさすがに極端な例だろう)。交換留学で行ったダートマスのビジネススクール(最近は知らないが当時は全米でトップ10に入っていた)では、日本では当然のように行列計算で教えていた回帰分析をExcelの関数ですませていてぎょっとした記憶がある。

この種の議論でいつも思うのは、比較の対象がずれていることだ。スタンフォードに限らないが、こうした方々が挙げる外国の例はほぼ例外なくかなり特殊なトップクラスに属するもので、それを日本の大学一般と比べるのはどうみてもおかしい。「わが社は日本でもトップクラスの大学からしか採用しないので他の大学は視野にない」ということかもしれないが、トップクラスの日本の大学でも不満ならなぜその外国のトップクラスの大学から採用しないのか。スタンフォードでもハーバードでも、オックスフォードでもケンブリッジでも、「優秀」な学生を輩出する大学は世界にいくらでもある。当然そのクラスの学生を惹きつけられるような魅力的な待遇や仕事を提示しなければならないが、「優秀」な学生を求める以上、そんなことは自明のはずだ。

中西 門戸が開かれているので、何度学んでも、また行ける。そのほうがグラデュエート・スクールもウエルカムです。学費が高くても、入ってきますからね。

文意がいまひとつ明らかでないがここでいう「門戸」とは企業への就職ということだろう。すなわち、米国企業は大学や大学院で学んできた人材をどんどん入れて高給を払っているということだが、では日本企業はどうなのか。「門戸」は開かれているのか。教育の成果に対していくら払っているのか。きちんと払っているなら米国トップクラスの大学や大学院からもどんどん日本企業に入社する者がいてしかるべきだが。

冨山 そして大金持ちになったら、莫大な寄付をしてくれる。それが、スタンフォード大学なんかでノーベル賞が出てくる本当の理由です。やっぱり基礎研究資金が潤沢。それは、卒業生のコミュニティから入ってくるからです。私立なので、運営交付金はもらっていませんので。

寄付をするのは「卒業生のコミュニティ」、すなわち卒業後に企業の経営者や幹部となっている人々だ。日本の大学は寄付するに値しないといいたいのかもしれないが、そもそも日本ではそうした人たちが「大金持ち」にはなっていない。なぜなのか。

中西 アメリカ流が全面的にいいわけではないけれど、今の日本のボトルネックはかなり明確に見えているんですよね。

それに対して、大学側がどう答えるのかというと、いやいや一斉採用で期限決めてください、と。それはどうなんでしょう。今後、協議会を組織して議論しますけどね。

確かにこうしてみてくればボトルネックは明らかで、それは企業自体だ。企業が採用時に複数言語で面接試験をすれば外国語能力に優れた人材に絞り込むことができる。数学も同様だが、実際それができないのは、そもそも企業の側でその能力を測ることも活かすこともできないからだ。優秀な人材を確保したければそれにふさわしい待遇と、そうした人材が働きたいと思う面白い仕事を用意すればよいがそれもできていない。「一斉採用」にしても、企業現場の声を聞いてみれば「一斉採用」を求めているのは企業の側も概ね同じだということがわかるはずだ。

特殊な技能ならともかく、外国語や数学などの一般的な能力について、現在の社員があらかた持たないものを就活生に求めるのははっきりいって高望みだ。実際そうした能力をもった学生が入ってきても使いこなせずもてあますだけだろうし、そもそもそうした能力が社内で求められているのに既存の社員が身につけようとしていないのであればその方がはるかに深刻な問題だ。年齢のせいにするのは努力をしない言い訳としては悪手だろう。同じ言い訳を配置転換する中高年社員に言われたらどう答えるのだろうか。

上記のように調べれば簡単にわかる話を調べもせずに自分の大昔の経験からくるイメージでものを語るさまをみると、婚活で相手にばかり高望みなスペックを求める人の話を思い出す。すなわち自らの現状を見ることができずにいるのだ。企業が「選ばれる側」でもあることを微塵も意識していないかのようだが、いうまでもなく学生の就職先は双方の選択によって決まる。毎年もめる内定時期の話も同様で、先に外資が内定を出したとしても、自社の方が望ましい就職先であればひっくり返せるはずだ(そうでなければ昨今話題の「内定辞退」の問題など起きるはずがない)。「ジャパンアズナンバーワン」の昭和ならともかく、平成も終わった令和の今、「優秀」な学生が採用できないと嘆く前に、なぜ自社が「優秀」な学生に選ばれないのか、少し考えてみるといいと思う。

駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授

専門は経営学。研究テーマは「お金・法・情報の技術の新たな融合」。趣味は「おもしろがる」。

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