一つの「吉田調書」から生まれる複数の内容、そして原本公開の話
自分達しか持っていないはずの原本を他所も持っていた!?
先の震災当時に発生した福島第一原発の事故に絡んで、政府の事故調査委員会が当時の吉田昌郎所長に聴取した内容をまとめた「聴取結果所(吉田調書)」。現場の生の声、実態が確認できるとして注目を集めていたものの、聴取を受けた吉田氏自身が非公開を望んでいたこともあり、非公開の方針が貫かれていた。吉田氏が昨年7月に死去した後は、政府側は遺族に対し、公開の是非について確認を行っている一方、各方面からは事故原因究明のために、現場指揮の中心人物である吉田氏の対応を確認するのが大切であるとし、開示を求める動きがなされている。
今件調書について今年の5月、朝日新聞が独自入手したとし、その内容をスクープの形で詳細に伝え、大きな話題を呼んだ。
相次ぎ掲載される内容からは、当時の現場の混乱ぶりや、関係各員のやもすれば無責任ぶりを表す表現が随所で確認され、物議をかもすことになった。さらにその内容が正しいか否かを検証したくとも、朝日新聞のみがソースを独自入手したものであり、報道他社は地団駄を踏む状態であったことは言うまでもない。
ところが。
この8月に産経新聞が同じく「吉田調書」を入手したとし、その内容を詳細に解説するスクープ記事を次々に掲載する。
両紙で展開される記事内容からは、記者の解釈やまとめ方による違いの範ちゅうに収まるものもあれば、「同一資料を基にした記事としては整合性が取れない」とする部分も多く、各方面から指摘がなされることになった(「俺達しか持っていないはずの「吉田調書」を別新聞社が持っていた!? どうする?? 的な話かも」などを参考のこと)。果たしてどちらの言が正しいのか、それともどちらも間違っているのか。
この時点では多くの可能性が考えられる。どちらもニセモノでした、どちらかが本物でどちらかがニセモノ、どちらも「一部が」ニセモノ、どちらかが本物でどちらかが「一部」ニセモノ。いずれにせよ、両新聞社とも入手したとする「吉田調書」そのものの全面公開をしない限り、整合性の取れない点では「都合の良いように手元の調書の内容を改ざんして伝えているのでは」と疑われてしまう。
どちらも同じものを基にした記事で、まったく異なる内容が配信される。報道としてはあってはならないことが起きており、その実態を確認するのは、本当の「吉田調書」をよりどころとするしかない。しかし非公開の方針のためそれも叶わず、今後も両紙、あるいは第三者的なものが登場すればそれも含めた間での水掛け論的な話が進むはずだった。
公開されないはずのマスターが公開されることで……
ところが今朝方、複数の報道機関により、政府側が原本とされる「吉田調書」を公開するとの報がなされた。一社だけなら誤報の可能性もあるが、複数ルートでの話で、しかも詳細部分の言及まで成されており、確証性は低くない(公開タイミングは報道機関によって微妙に異なる)。
以前から政府側でも公開の意志はあったこと、そして今件のように複数報道機関で「入手した」とする話を前提に細切れ状に情報が流れ、しかもその内容に齟齬が生じていることなどから、「内容を正確に国民に示す必要がある」という理由は十分に理にかなうものがある(無論、どのような理由があるにせよ、当人の意志に反する形で公開がなされると、今後似たような事案が生じた時に証言が得られなくなるリスクが生じる)。
先行して「入手した」新聞社においては、報道のあるべき姿に従い、内容を誠実に伝えていたところもあるだろう。一方で自社など少数のみが一次資料を持つ特権を用い、他者による精査が出来ない立場を利用し、恣意的な解釈の上で、さらには資料とは異なる内容を伝える場面があったかもしれない。
現時点で「独自入手」をしたとし、内容を詳しく伝えているのは朝日新聞と産経新聞の2社。この2社においては、政府側からマスターとなる「吉田調書」が公開される前に、手持ちの「吉田調書」を全面公開することを強く勧めたい。それにより早くも一部で話に上がっている「政府が公開予定の調書は改ざん、捏造したものだ」という話への精査材料になるし、自社の報道の確からしさを証明する証にもなる。政府が公開した後に「実はこのような内容でした」と公開しても遅すぎる。いくらでも辻褄を合わせられるからだ。
あるいは今回のマスター調書の公開により、両紙、あるいはどちらかの内容(の一部)がニセモノであったことが発覚するかもしれない。その場合、確証が取れない資料をもとに大々的に、社会的にも大きな影響を与える内容を事実として伝えたことに対し、色々な問題が生じることだろう。
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