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白と黒とグレー。ブラックフェイス論争のこの先

にしゃんた社会学者・タレント・ダイバーシティスピーカー(多様性語り部)
「東京レインボープライド」 多様な性へ理解呼びかけ(写真:ロイター/アフロ)

 年末のダウンタウンの浜田雅功氏がエディ・マーフィに扮し、顔を黒く塗り番組に出演したことに関する論争が1月下旬に差し掛かろうとしているのにまだ収まらない。海外メディアの「The New York Times」や「BBC」などでも報じられ、インターネットなどを中心に今日も熱い議論が交わされている。一つだけはっきり言えることがある。他でもなく、日本の私たちはまさに今、この国において貴重な時間を生きているということである。感情論ではなく、ものごとを冷静に整理していくと自ずと答えが見えてくる。

 日本の歴史上でも「黒人」は登場する。私などの浅はかな知識だけでも織田信長に仕えた弥助が思い出される。おそらく資料上で登場する日本における最も古い「黒人」存在である。弥助が京都にやって来た頃「黒人」を一目見たさに大勢の見物客が殺到し、同じく初めて「黒人」を見た信長も、肌に墨を塗っているのではないかと身体を洗わせたなど、日本社会において黒い肌は昔から珍しかったようである。

 しかし、日本には「黒人」を奴隷にするなど欧米が歩んだような歴史はなく、どちらかというと「黒人」もこの社会で大事にされてきた。弥助に関しては、戦国時代の日本にやってきた、イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが連れてきた召使であったが、信長に気に入られ献上されると、信長から「弥助」と命名され、武士の身分を与えられ、将来的には弥助を城主にする思いも信長にはあったと言われている。

 仮に日本に外国人に対するアレルギー反応や差別事象などがあっても、「黒人」に特化して差別したような歴史は存在しない。その延長線上にあって、おそらく日本におけるブラックフェイスの走りである「ラッツ&スター」にも「黒人差別」する意図はなく、むしろリスペクトがあったという意見も納得できる。むろん数年前に、ラッツ&スターと並んで、同じ格好をしたももいろクローバーZにも悪意はなく、さらには今回の主題である浜田氏や番組制作側にも「黒人」を馬鹿にする意図などない。これはまぎれもない事実であると言い切っても良いだろう。

「黒人差別」の歴史がない点、日本ばかりが特殊かと言えば、そんなこともない。例えば(大きなカテゴリーで言うと私なども本来なら日本人と同じ黄色に属するのだが、)一見「黒人」として扱われる私の母国スリランカも同じである。日本のように歴史に裏打ちされた「黒人差別」の史実は存在せず、実感も伴わない。事実このような国や地域も世界では多くある。

 しかし、事実として場所が違えば、「黒人差別」を切り離して歴史を語れない国々もある。主にかつて植民地支配や奴隷貿易に関係があった国々、とくに宗主国ということになる。肌の色が違うだけで人間として扱ってもらえない苦しい歴史を歩んだ人たちがいる。そして世界には肌の色による差別をなくすため命がけで戦ってきた歴史がある。アメリカやヨーロッパに白人が顔を黒く塗って演じる「ブラック・ミンストレル・ショー」がかつてあったという事実、そして黒人差別解放運動の結果としてそれらをなくしてきた歴史がある。

 繰り返しになるが、「黒人」には、人間が人間として生きることの尊厳を勝ち得た歴史がある。「黒人」にルーツのある当事者は、その分野に関して詳しく、かつ敏感でもある。そして今回の問題定義を行った、米国出身の作家 バイエ・マクニールも当事者であり、彼は間違いなく、「黒人」の歴史に明るくない私たちとは違う感覚や感性をもっている。

 彼の弁を聞いていても決して声を荒げているわけでもなく、日本に対して敵意をもっているわけでもなく、むしろ日本が大好きと公言さえしている。指摘の内容は論理的で説得力もある。個人的には、彼が旅行者ではなく、日本に永住すると決めてからこれらを指摘していこうというようになったと言っていることが目に留まる。一つの大事な見方として、この国に住む人間としてこの国をより良い国にするための自分の強みを生かした貢献であると言える。

 二つの大きな文化がぶつかりあってるのが今回の騒ぎである。「日本文化」と「黒人文化」と言えるかもしれないし、「日本文化」対「グローバル文化」という言い方もできるだろう。今回のブラックフェイスについて、それこそ「黒」だの「白」だの「グレー」だの、の意見が飛び交っているが、肝心なのはこれから先どうするかである。

 一つ興味深いアンケートがある。今回の騒動を受けてORICON NEWSでは、日本の10代から50代の計1000の男女に対して調査を行ない、賛否の割合について次のような結果となった。

 【黒塗りメイクを差別だと思うか?】

 ・差別にあたると思う……7.9%

 ・差別にあたると思わない……55.6%

 ・どちらともいえない/わからない……36.5%

 上記の結果は、日本人の意見をおおよそ正しく表していると言えよう。繰り返しになるが、大事なのは、ここから先である。私たちが何を選択するかであるが、大きく二つの選択肢がある。

 一つは、ここは日本であるということで、日本人多数派本位で押し切ることである。それがおそらく最も簡単である。逆に言うと、国内のニュースでブラックフェイスのニュースを扱わないことだってできる。

 もう一つは、所詮海外メディアだったり、国内においても極めて少数派(上記の調査なら1割にも満たない)のであるが、ブラックフェイスを今後、取りやめる方向にするということである。

 結果は、おそらく後者になるに違いない。今後において日本のメディアは、そのような判断に至ると見ている。実は、社会全体あるいは、社会における平和で、持続可能で、成長する、大小を問わないあらゆる空間には一つの絶対的な特徴がある。それは小さな意見、違いや変化も見落とさず取り入れて前進するということである。

 逆に言うと、世の中は必ずしもそうなっていない。実はそれらと向き合う組み合わせは大きく四つある。上記を除いて他に三つ存在している。

 その1、手前として、受け入れず変わろうとしない、排斥、排除、無視、シカトという決断。その2、手前が受け入れず相手に受け入れさせる同化である。そのさは、知識などは受け入れるが、行動が伴わない、ただ知っているだけにしておくといういわゆる「すみわけ」である。

 実は、世界に起きているあらゆる問題は、上記した3つの組み合わせである「排斥…」、「同化」「すみわけ」の決断に至ったことの因果として表れている。その意味においても歩むべき方向が決まっている。

 察するに今回の「ブラック問題」は「フェイス」では終わらない。将来的に否定的なことに対してブラックを使う、例えば日本で流行っている「ブラック企業」などが指摘されるようになるかも知れない。しかし、日本にかつてあった「トルコ風呂」がなくなったように、「メッカ」のような言葉が放送自粛されてきたように、その都度、改善を加えていくに違いない。

 日本は少数者に配慮できる素晴らしい国である。違いと接する機会が一段と増える時代に生きる私たちだからこそ、それらを成長する機会として捉えたい。それは今回の問題でいうと日本の文化だけではなく、「黒人」が歩んだ歴史について知り、学び、束ね合わせることによって自らが強く、優しく、しなやかに、美しく、そして豊かになることである。

社会学者・タレント・ダイバーシティスピーカー(多様性語り部)

羽衣国際大学 教授。博士(経済学)イギリス連邦の自治領セイロン生まれ。高校生の時に渡日、日本国籍を取得。スリランカ人、教授、タレント、随筆家、落語家、空手家、講演家、経営者、子育て父などの顔をもっており、多方面で活動中。「ミスターダイバーシティ」と言われることも。現在は主に、大学教授傍ら、メディア出演や講演活動を行う。テレビ•ラジオは情報番組のコメンテーターからバラエティまで幅広く、講演家として全国各地で「違いを楽しみ、力に変える」(多様性と包摂)をテーマとする ダイバーシティ スピーカー (多様性の語り部)として活躍。ボランティアで献血推進活動に積極的である。

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