多様性が生きづらさを増す!? 「ふつうプレッシャー」に押しつぶされずに新生活を送るために
「みんなちがって、みんないい」なんてウソ!?
「『みんなちがって、みんないい』と言う人がいるけど、そんなのウソじゃないでしょうか?」とある若者に言われたことがある。
私は「そのとおりだよね!」と言った。
「みんなちがって、みんないい」は、金子みすゞの有名な詩。
それはこう書かれている。
わたしと小鳥とすずと
わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。
わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんのうたは知らないよ。
すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。
「ふつう」が入ると、話が変わる
この詩には、大事な前提がある。
それは、「わたし」と「小鳥」と「すず」は、そもそも比べられない、別の種類のモノだ、ということ(金子みすゞがそのつもりで書いたと主張したいわけではない)。
これを「わたし」と、同じクラスの「Aさん」と「Bさん」としたら、話はちがってくる。
これを「わたし」と、同じ職場の「パートのおばちゃん」と「主任の男性」とすると、話はちがってくる。
そこに「ふつう」が入ってくるからだ。
「ふつう」が入ってくると、私とAさんは、比較可能になる。「ふつうのAさんとふつうじゃない私」とか。
わたしと小鳥の間には「ふつう」がない。
わたしと他人の間には「ふつう」がある。
多様化するほど、生きづらい人が増える!?
「世の中が多様化すればするほど、生きづらい人が増える」
ーーある会合でご一緒していたとき、エッセイストの小島慶子さんがそう言った。
私は、考えるヒントをもらった気がした。
多様化は、ある種の解放感とともに語られることが多い。
ライフコースもライフスタイルも、どんどん多様化していっている。そう言われている。
にもかかわらず、生きづらさを抱える人たちが減っているようには見えない。
なぜなんだろう。
小島さんの趣旨とは違うかもしれないが、小島さんの発言をきっかけに、私は今回のことを考え始めた。
「ふつう」と「多様性」と「生きづらさ」の関係
「ふつう」があると、「ふつうじゃない」自分が、他人と違う、孤立した、「修正の必要な人間」に思えてくる。
そして世の中が多様化すると、多面的な自分のどこかが「ふつうじゃない」点をもつことになる。
すると、多様化した世の中では、「修正の必要な人間(と自分で感じる人)」が増えることになる。
“ありのままの自分”は「修正の必要な人間」で、修正すれば「ふつう」にはなれるが、それは“自分らしくない”。
どっちに転んでも困る感じ。
この「どっちに転んでも困る」感覚が、生きづらさを生み出す。
そのため、世の中が多様化すればするほど、生きづらい人が増える、ということになる。
「ふつうなんか、ない」とは言うけれど…
「ふつうなんか、ない」とよく聞く。
「そんなものに縛られる必要ない」とも。
他方、そう言いながらも、私たちはついつい「ふつう」を口にしてもいる。
「ふつう、そういうことしないよね」
「ふつう、わかるだろ、それくらい」
「ふつうに暮らしてくれれば、それでいい」
「ふつうの進学」「ふつうの就職」
「ふつうにしていれば、そうはならないでしょ」等々。
私も、気をつけているつもりで、つい使ってしまうことがある。
「ふつうプレッシャー」
「ふつう」は本来ニュートラルな言葉なのだが、「お願いだから、ふつうにして」といったときの「ふつう」には、「できる/できない」という能力評価、価値判断が入ってくる。
すると、「ふつうじゃない自分」は、どこか劣って(=修正が必要に)感じられてくる。
これを「ふつうプレッシャー」と呼ぶ。
「ふつうプレッシャー」が強いと、多様化に伴って、生きづらい人が増える。
現実が多様化すればするほど、「ありのままの自分でいい、なんてウソ」「みんなちがって、みんないい、なんてウソ」と感じる人が増える。
それらが空虚なタテマエに聞こえてくる。
そしてそれには、根拠がある。「ふつうプレッシャー」が強すぎるのだ。
広すぎて、捉えどころがなく、だから便利に使われすぎる
「ふつう」には、常識とか標準といった意味がある。
「ふつう、そういうことしないよね」は「そうした行為は、常識的じゃないと思う」という意味だし、
「ふつうに暮らしてくれれば、それでいい」は「別に金持ちにならなくていいが、標準的な収入を得られる暮らしはしてほしい」ということだ。
だけど、人はあまりそうは言わない。
一つには、ジョウシキとかヒョウジュンとか、漢字熟語が難しいからだが、
常識とか標準と言うと客観性をもってしまう、ということがある。
何が常識で、何が常識でないか。それは議論の対象になりやすい。
標準も指標化しやすい。
日本の世帯収入の中央値は約440万円。
標準的な暮らしとは、とりあえず月収30万円程度の暮らしとなる。
「つまり、月収30万円稼げる仕事に就けってこと?」と聞ける。
他方、「ふつう」は常識とか標準という意味を持ちながら、それよりも広く、かつ捉えどころがない。
「ふつうに暮らしてほしい」
「月収30万円稼げってこと?」
「いや、そういうことを言ってるんじゃなくて…」
「じゃあ、どういうこと言ってるの?」
「ふつうにって言ったら、ふつうでしょ。わかるでしょ、ふつう」みたいな感じだ(笑)。
捉えどころがなく、広すぎて、だからこそ便利に使われすぎている。
だから、「ふつう」そのものというよりも「ふつうプレッシャー」が問題だと感じる。
働く女性と専業主婦、どちらが「ふつう」?
以前聞いた、ある女性の話が印象的だった。
その方は、以前は子育てしながら働いていて、今は専業主婦をしている。
その人は言った。
「以前、私が働いたとき、なんとなく肩身の狭い思いをしていた」と。
専業主婦が「ふつう」の時代だった。
「なんで働いてるの?子どもはどうしてるの?大丈夫なの?」と、いかにも何か自分が釈明しないといけない立場に置かれているような気がしていた。
今は、たまたま専業主婦になっている。
世の中は、共働きが「ふつう」になっていた。
今度はこう聞かれる。
「なんで働かないの?ずっと家にいて、何してるの?」と、やはりなんとなく肩身の狭い思いをする。
何か釈明しないといけない感じ
専業主婦になるのも、働くのも、さまざまな要因が絡んだ結果であり、本来はどちらがいいとか悪いとかではないはずだ。
しかしなぜか、「ふつうじゃない」選択をしている人は、何か釈明しないといけないような感じにさせられる。
それがしんどいし、めんどくさいから、やはり「ふつう」を選択して、「やっぱり、ふつうがいいや」となって、結果として「ふつうプレッシャー」が強化されていく。
でも、働く場面ではそうなっても、その人は他の場面では「ふつうじゃない」点をもっているかもしれない。
姑との関係が「ふつうじゃない」とか、家族の中に「ふつうじゃない」人がいるとか、友人と「ふつうに付き合えない」とか、片づけが「ふつうにできない」とか……。
「ふつうプレッシャー」から解放されないと、自分のどこかに生きづらさを抱えた状態が残る。
新しい環境と新しい生活への不安
2017年度も、もうすぐ終わる。
私の大学のゼミ生たちも卒業して、それぞれの会社で働きだす。
新生活が始まり、新しい「ふつう」に直面する人たちが増えるだろう。
「小学生のふつう」「中学生・高校生のふつう」「社会人としてのふつう」「うちの会社のふつう」「この地域のふつう」…。
広くて、捉えどころがないだけに、どんな「ふつう」が出てくるかわからない。
それは、不安でこわいものだと思う。
いろんな環境にデビューし、新たな「ふつう」に出会うこの時期だからこそ、その対処法も考えたい。
「ふつうプレッシャー」に負けないための5つのこと
「ふつうプレッシャー」に負けず、前向きに生きていくために、いくつか思うところを伝えたい。
1)「問題」を理解しよう
人はみな、凸凹だ。
「ふつう」以上にできるところもあれば、「ふつう」にできないところもある。
ジグソーパズルのピースのようなもの。凸と凹がある。
「ふつうにしろ」と言われると、きれいな□(正方形)であることを求められているような気がしてくる。
でもそれは、自分の凸をつぶして、凹を無理やり引っ張る作業になる。
それをずっと続けるのは、しんどい。自分を否定し続けることになるから。
だからといって「凸凹でいいじゃないか!」と、周囲を敵に回すのは勇気がいる。
新しい環境に入っていきなり周囲にかみつくのは、できる人もいるだろうが、できる人ばかりではないだろう。
できないときは、せめて「問題」を理解しよう。
「あ、自分は今、凸凹を均せ、と言われているんだな」と。
むやみに不安になったり、自分にダメの烙印を押すよりも、ずっと冷静になれるはずだ。
2)フィールドワークのつもりで
それでもしんどくなったら、「自分は『ふつう動物園』にフィールドワークに来ているんだ」と脳内転換しよう。
「ふつう動物園」には、「やさしい課長」とか「おせっかいだけど、いろいろ教えてくれるパートの主任」とか「チクチク言ってくる係長」とか、いろんな“動物”がいて、それぞれが自分にとっての「ふつう」を言ってくる。
「へえ、この人にとっての『ふつう』って、こういうことかあ」と観察する心の余裕をもとう。
「ふつう」と言いながら、そこにはその人の凸凹が表れているはずだ。それを突き止めてみよう。
巻き込まれすぎない。心の距離をとる。
3)自分がイヤなことは、他人にはしない
「ふつうプレッシャー」に耐え続け、しのぎ続けると、いつの間にか自分が「ふつうプレッシャー」を振りまく人になっている、ということはよくある。
何年かたったら、後輩に「ふつうプレッシャー」をかけまくる人になっている、というように。
「自分だってしんどい中やってきたんだから、あんただって、これくらいできるでしょ、ふつう」と言いたくなる気持ちになるのは、わかる。
でも、その再生産は、世の中を豊かにしない。
自分がイヤだったことは、他人にはしない。これが「ふつう」だ(笑)。
4)あきらめない、いずれ変わる、もう変わり始めている
先が見えないと、人はがんばれない。
しかし、先は見えてきている。
きれいな□の人など、もうそんなにいない。
何かしらの凸と凹を抱えている人が、多数だ。
ただ「自分はきれいな□です、という顔をしてなきゃいけない」という「ふつうプレッシャー」から逃れられないだけだ。
しかし、それではもう世の中が回らないことを、ずいぶんたくさんの人が気づいている。
「働き方改革」の文脈では、「レディメイド(お仕着せ)からオーダーメイド(注文発注)へ」といったことも言われるようになってきた。
もう「若くて、健康な、日本人の、男性」だけを想定した働き方は、もたなくなっている。
もっと個別にカスタマイズした、つまりは凸凹を前提とした(子育てがあるとか、介護があるとか、家で働きたいとか、夜遅くてもいいから朝は勘弁してほしいとか)働き方を用意できないと、企業も生き残れないと言われ始めている。
まだまだだが、変わり始めてはいる。
あなたのがんばりは、未来を創るがんばりだ。先はあり、未来はある。
5)誰かが「みんなちがって、みんないい」と言ったら…
大人が「みんなちがって、みんないい」と言ったとき、
うのみにするのはよくないが、しょせんタテマエと頭ごなしに否定するのもよくない。
私が一番いいと思うのは「ふ~ん」と受け止めて、判断を保留すること。
そして、1~3か月かけて、その人を観察すること。
その大人が「みんなちがって、みんないい」を本当に生きているならば、その人の言動から、その真実性が証明されるだろう。
その大人が「みんなちがって、みんないい」を本当に生きていないならば、その観察期間中に必ず馬脚を表す。
必ずどこかで「ふつうは、こうだろ」と「ふつうプレッシャー」をあなた自身か、他の誰かにかける場面に出会う。
前者であれば、あなたは少し、そのことを信じてみようという気になるだろう。
後者の場合は……次の機会を待とう。
この保留と観察の最大のメリットは、それを生きている人を探して観察している間、少なくともあなた自身は決して他人に「ふつうプレッシャー」をかける人間にはならない、ということ。
そうしているうちに、あなた自身が「みんなちがって、みんないい」を本当に生きられる人になる。
そのあなたを見て、他の人たちが変わる。
そうやって、世の中は変わっていく。
――――
「生きづらさ」に押しつぶされることなく、なんとか生きていってほしい――今日、卒業していく学生たちに私が願うのも、ただそれだけだ。
健闘を祈る。
(2018.3.24 8:59一部修正。写真の出典を明記)