「『選手を続けるのはNPBだけなんです』と」大引啓次が語る引退の経緯、そして現役生活の思い出【前編】
プロ野球はまもなく恒例の春季キャンプに突入。千葉ロッテマリーンズの佐々木朗希、東京ヤクルトスワローズの奥川恭伸といったゴールデンルーキーたちが、いよいよプロでのスタートを切ることになる。
その一方で、昨年限りで現役生活に別れを告げ、ひっそりとユニフォームを脱いだ選手もいる。オリックス・バファローズ、北海道日本ハムファイターズ、そしてヤクルトで主に遊撃手として13年間プレーし、2015年にはヤクルトのセ・リーグ優勝に貢献した大引啓次(35歳)もその1人だ。
「最後はパ・リーグに戻りたいというのもあった」
「自分の中で最終の区切りを(昨年の)年内ということに決めていたんで、気持ちよくスッキリと、はい。もちろん100%悔いがないって言ったら嘘になりますし、なんなら今シーズンもまだまだ若い選手には負けないぞっていう気持ちもないことはないですけど、いつかはユニフォームを脱がないといけないですしね。そういった意味では、スッキリと辞めることができました」
まだ現役を続けたいとの思いがなかったわけではない。それも生まれ育った関西、プロでの出発点でもあるパ・リーグの球団でプレーできれば、理想的だったという。
「最後はパ・リーグに戻りたいなっていうのもあったんですけど、これはあくまで理想であって、もっと活躍して実績も残した選手が言えることですけどね。最後はまたパ・リーグで、関西のノリというか『おもろくやろうや』みたいな、最後にもう一度そういう雰囲気でやれたらなっていうのはあったんですけど」
だが、昨年10月1日にヤクルトから正式に戦力外通告を受けた後も、NPBの球団からの打診はなかったという。オファーがあったのは独立リーグと社会人の3チーム。いずれも選手兼任コーチとしての誘いだった。
「本当にありがたい話だったんですけど『僕の中で選手を続けるのはNPBだけなんです』というのは、お伝えしました。その中でも1つのチームは、どちらかというとコーチ専任に近い形で『もし選手を続けたいんであれば、やってくれてもいい』と。あくまでコーチメインで来てくれないかっていうお話だったんで、『年内いっぱいまで待っていただけますか』という話をさせていただいたんですけど、そうしているうちに日がドンドン過ぎていって……。早く態度を示さないと相手にも失礼だなと思いましたし、どうやら獲得に動きそうな(NPBの)球団もなさそうだということで(引退を)決断しました」
現役生活の思い出は「プロ初安打」と「優勝」。そして……
法政大から大学生・社会人ドラフト3巡目でオリックスに入団し、日本ハム、ヤクルトと渡り歩いて13年。大引にはその中で3つの大きな思い出があるという。
1つ目は入団1年目の2007年シーズン開幕戦、初打席で打ったプロ初安打。相手は沢村賞2度の福岡ソフトバンクホークスの大エース、斉藤和巳だった。
「今でもまぶたの裏に焼き付いてます。相手はあの斉藤さんでしょ? 自信になりましたね。もちろん前の年(2006年)までが全盛期だったと思うんですけど、その年も開幕投手ですしね。向こうもルーキー相手に最初の打席で変化球でかわそうなんて思わなかったでしょうし、横綱野球をしてくれました。初球は外のストレートで空振り。2球目も同じ配球で、外の真っすぐがちょっと甘く入ってライト前(ヒット)になったんですけどね」
2つ目はFAでヤクルトに移籍した2015年のセ・リーグ優勝。大引にとっては、これがプロ野球人生で唯一のリーグ優勝となった。
「いい思い出の1ページですし、優勝しないまま終わる選手もたくさんいるわけですから。僕は優勝できたというよりも、させてもらったって思ってるんです。チームメイトに恵まれて、タイミング良く仲間に加えていただいて、さまざまな点で感謝してます。やっぱりチームが勝てないのって、レギュラーの責任なんですよ。そういった中で、長い間ショートのレギュラーでやらせてもらって一度でも優勝できたっていうのは、自分の中で誇らしさというか、ホッとした気持ちがありました。僕は(打撃で)タイトルを争うような選手じゃないですし、その分、数字に表れない部分で頑張ろうという思いはありましたね」
そして3つ目は、昨年8月23日の阪神タイガース戦(神宮)で達成した通算1000安打。この記録は、家族の支えなしには成しえないものだったという。
「達成できたのは家族のおかげだと思います。僕が独身やったら、(1年前に)辞めてたと思いますよ」
※【後編】に続く