小林賢太郎批判の「人権団体」、反差別の矛盾が酷い―日本のメディアにも課題
ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺(ホロコースト)を揶揄するようなコントを過去に行っていたことで、東京五輪・パラリンピック開閉会式でのショーディレクターを解任された小林賢太郎氏。人類史上最悪の虐殺であるホロコーストを揶揄することは許されない、それは筆者も異論はない。ただし、本件についての報道のあり方については、いささか気になる点もある。それは、小林氏のコントへの反応に関して、「サイモン・ウィーゼンタール・センター」の声明を取り上げ、同団体を「人権団体」として紹介していることだ。
○「人権団体」と紹介すべき団体なのか?
サイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)は、米国のロサンゼルスに本拠地を置き、1977年に創設された。ホロコーストに関する啓蒙活動や「反ユダヤ」的な言動や活動について、監視・抗議を行っている団体であり、日本の報道では「人権団体」として紹介されることが多い。だが、SWCはユダヤ人に対する差別や暴力には抗議する一方で、イスラエルが行っている国際人道法違反は擁護し、イスラエルによるパレスチナ占領等への批判に「反ユダヤ」のレッテル貼りをすることが多々あるなど(関連情報)、シオニズム*団体としての活動も目立つ。ヒューマン・ライツ・ウォッチやアムネスティ・インターナショナルなど国や民族に関係なく人権を普遍的ものとして活動する人権団体とSWCとでは、分けて見る必要があるのではないか。
*シオニズム:ユダヤ教徒を民族として位置づけ、「ユダヤ民族」による国家をつくることで、反ユダヤの迫害から逃れる安住の地を得ようとする思想。シオニズムはイスラエル建国の原動力となった一方、パレスチナ占領を正当化する口実にもされている。
○イスラエル軍による虐殺は批判せず
SWCのシオニズム団体としての性質は、例えば、イスラエル軍によるパレスチナ自治区ガザへの大規模攻撃(2014年)への反応からも見て取れる。小林氏解任について日本のメディアにコメントしたSWCのエイブラハム・クーパー副代表は、2014年7月の来日時に日本記者クラブで会見。クーパー氏は、当時、激化していたイスラエル軍によるガザ攻撃に対し、「多くの人々の血が流れていることへの責任は(ガザでの政府与党/武装組織である)ハマスにある」と主張。イスラエル軍によるガザ市民への無差別攻撃には一切言及しなかった。
だが、当時、ガザ現地で取材を行っていた筆者が見たものは、救急車や病院、発電施設、そして非戦闘員である一般市民の避難所となっていた国連運営の学校への攻撃であった。これらのイスラエル軍の攻撃は、明確に国際人道法に反するものだ。ハマス側もロケット弾を発射していたし、市民への無差別攻撃という点でこちらも批難されるべきものだが、イスラエル軍の攻撃の規模、それによる被害の深刻さは、ハマスに責任を押し付けて済まされるものではない。
○イスラエルの強硬派への肩入れが親ユダヤ?
そもそも、イスラエルの強硬派に肩入れすることが、親イスラエル、親ユダヤなのかという問題もある。例えば、2018年5月、当時のトランプ政権が在イスラエル米国大使館を、エルサレムに移転した際は、イスラエルの市民からも反対の声があがった。それは、エルサレムがユダヤ教、イスラム教、キリスト教の共通の聖地であり、その帰属は常に中東での紛争の火種となってきたからであり、米国大使館の移転=エルサレムがイスラエルに帰属するというアピールは、中東和平の障害となるからである。現地では、右派ユダヤ人の人々が移転を歓迎していたが、ユダヤ人の平和団体やその支持者達は、移転に抗議するデモを行っていた。また、当時ガザでは、移転へ抗議する人々に対しイスラエル軍が実弾発砲を繰り返し、死傷者が相次いでいたことについても、ユダヤ人の平和運動家達は、イスラエル政府や軍を批判していた。一方、SWCのクーパー氏は毎日新聞のインタビューに対し、ガザ市民へのイスラエル軍の発砲を擁護していたのである。
○「ユダヤ人が怒るから」ではなく
日本において、ホロコーストやナチス・ドイツに関連する不適切な言動について、メディアがいちいちSWCにコメントを求めたりすることも、本来、おかしなことである。大量虐殺は、国際人道法に反する戦争犯罪であり、人権を普遍的価値とする国際社会において絶対に許されない行為だ。ユダヤ人を大量虐殺したホロコーストに対し、ユダヤ人だけではなく、日本人としても許されないものとみなす。それは世界人権宣言や国際人権規約、国際人道法を支持する日本として、当然の所作なのである。そうした意識がないからこそ、ホロコーストを揶揄するようなコントが行われ、会場にいた観客達もどっと笑う、ということがあったのだろう。同様に、イスラエルの右派に肩入れし、パレスチナの人々の人権には無関心なSWCを「人権団体」と紹介している時点で、そもそも人権に対する理解が十分でないということを、日本のメディア関係者は自覚すべきなのだ。
(了)