日本でいちばん屋上を愛する男-岡崎富夢の物語<後編>
屋上リビングを一気に庶民に手が届く価格にした男、株式会社PASIO代表 岡崎富夢の物語。豪快な半生を語ってもらいました【後編】
***
2011年1月23日。2つの事業立て直しに成功し、会社での将来が約束されたかに見えた岡崎だが・・・
岡崎)33歳になった俺は再び辞表を会社に出したんだ。社長に決裁をかけなければちょっとした出費もできないっていう、会社の規定が馬鹿馬鹿しくてね。最早数十億円以上の売上をあげる会社で、しかもその中核は俺が築いたものと言っても過言じゃないのに、わずかな額のために毎回決裁をかけるくらいなら、辞めて自分で起業した方が利益は上がるし早いよね。俺はこのライフスタイルを日本に広めるのが使命と思っていた。でもこのままこの会社のお伺いを立てていたら広まらない。俺には俺なりの大義があったんだ。
今でも覚えてるんだけど、オーナーは絵に描いたように椅子から転げ落ちたよ。だって俺は当時会社の常務でスーパースターだったから。でもオーナーからしたら、別に利益を上げたいと思ってないんだよね。まあこのままの調子でやっていけたらいいんだけど、俺はそれじゃ嫌なんだよ。だから俺は言ってやった。「こんな新しい事業初めてでしょ。なのに一々お伺い立てていたら、この事業はだめになります。屋上緑化を広めるのは俺のライフワークだから、このままお伺い立て続けるくらいなら俺は辞めます」と。
で、慌てて慰留するオーナーに、俺はこう答えた。「まず決裁を俺の自由にさせてください。また、年収は俺のあげた営業利益の10%をください。自分で起業したら俺は億万長者になるわけだから」と。
そしたらまさかオーナーは条件を飲むって言うからさ。俺は会社を辞める気満々だったから条件をつけたんだけど、意外にもオーナーはその条件を飲んでまで俺に会社に留まってほしいと。飲むと言われても辞めるなら、俺がただ一人で儲けたいだけじゃないかということになるからさ。俺山口県出身でお人よしだから、オーナーを信じちゃったんだよね。それで俺は会社に残ることにして、年収はそれまで1,000万だったのが、4000万になった。
岩佐)株ももらったの?
岡崎)多少ね。役員はこれから辞めるから、10年後には増やそうという口約束をして貰ったんだ。
岩佐)オーナーに条件を飲んでもらって、会社は富夢ちゃんの立て直した2つの事業のおかげで絶好調だったんだよね。そういえば富夢ちゃん、その頃よくメディアにも出てたよね。時代の寵児な感じだったよ。
岡崎)そう、春そのものだったよ。4000万の年収があり、経費も自由に使うことができる。
岩佐)その時どうだった?どんな気持ちだったの?
岡崎)最悪だったね。もう最悪。今だからわかるんだけど、俺は完全に驕っていて、酒と女と金に溺れていた。酒なんてむちゃくちゃ飲んでたし、女なんて日替わりだったね。その頃はそんなんだったけど、誰も覚えてないし今となっては誰とも関係が残ってないんだよ。金も、小銭入れから折りたたんだ1万円が出てくるくらい、無頓着だった。全部代替欲求のはけ口。悪魔に魂を売ってたんだ。その時は分からなかったけど。
岡崎)俺、昔から金持ちになりたかったんだ。俺の親父は中卒でお袋はヤンキーで、めちゃくちゃ貧乏だったんだよね。お袋は金持ちのお嬢さんだったんだけど継母に毎日いじめられていて、ものすごく愛のない家で育ってきた人なんだ。親父は中卒で自動車の整備士をやっていて、金はないけど、俺のおばあちゃんの愛を受けて育った人なんだよね。その二人が結婚して5年後に生まれた一人息子が俺なんだ。俺は、金はないけど本当に愛のある家庭で育った。だから俺は人を信じているし、人が大好きなんだ。両親に愛されて育った。でも金はなかった。小学校の5年くらいの時、夏休みに海外旅行行ってる奴いるやん。めっちゃ楽しそうやん。ハワイとかさ。そいつより俺は喧嘩も強いし足も速いし勉強もできるの。でもハワイには行けないわけ。なんでかと思ったら、親父のパフォーマンスの違いなわけ。親父のいい笑顔は思い浮かぶけど、ハワイは無理だろうなと。だから、俺が親父たちを連れていけるようになろうと思った。これが一つの原体験。
もう一つが、親父の姉さんの子どもが心臓に穴が開いていて、この子の手術に500万かかると言われていた。親戚中が、金がないから右往左往していた。その時もし俺に金があったら出してやれるのに、と。愛のすばらしさも受け止めてきたけど、金のない惨めさも小学校低学年の時に痛烈に感じたね。
もう一つ決定的だったのが、うちのお袋は親父のことを大好きだったんだ、優しくて。でも親父は中卒だから、いつも会社から帰ってきたら会社の愚痴を言う。自分は現場を知っていて仕事ができるけど、高卒大卒の上司がきて、何も分かっていない彼らに親父は虐げられる。それでお袋に会社の愚痴を言うわけ。小学校4年くらいの時のことを俺は覚えてるんだけど、毎晩晩飯を食いながら、お袋が『お父さん、そんな人はいずれ自業自得でいなくなりますよ。お父さんのおかげで私たちは毎日食べられるんだから、ありがとうね』って親父を立てるわけよ。で朝親父を見送った後ぱっと俺の方を怖い顔で振り返って、『富夢くん。勉強しないとこういう人生になるわよ。人に人生をコントロールされる。私はお父さん大好きだけど、あなたは自分の人生を勝ち取りなさい』と。俺のその小学校時代の原体験が全て今の俺になってるんだ。そこから、自分の力で這い上がるしかないということが身に染みているわけ。そんな俺が30歳に年収1000万、35歳には年収4000万。どこに行くにも付き人が来る。車なんて誰かが運転してくれるから運転したことがない。常務、次期社長とちやほやされる。人間が腐ってくるわけよ。家賃40万のところに住んで、クルーザー持って。1000万くらいの車に乗って。その時俺は魂を売っていたね。
でも、素直にそれを楽しめばいいんだけど、本当は、俺はそんな自分が嫌いなんだよね。自分らしくないんだよ。刹那的で、自己中心的な生活。金があれば何でもできる、みたいなことほんとに言ってたしね。自分の好きじゃない自分になってるから、自分の魂がどんどん崩れていく。崩れるとどうなるかというと、余計に酒、金、女になっていって自分を壊す。俺がどこまでやっても俺についてくるのか、と試したくなる。今思い返すと、最低だったね。
岡崎)それで今でも忘れない、2014年10月31日。前の日に高知の親友の会社との共同事業が決まって意気揚々と羽田で携帯の電源を入れたら、夥しい数の俺の背任行為を指摘するメールが、あのオーナーから届いていたんだ。
岩佐)背任行為って具体的にはなんだったの?
岡崎)女性関係が派手だとか、金遣いの荒さで公私混同しているとか。実際は自腹での支払いがほとんどで、経費を使ったわけでもないし、独身だったから法に触れるようなことは決してしていないんだよ。でも、調子に乗っていた俺は知らずに多くの敵を作っていたんだろうね。完全に青天の霹靂だった。その段階でも、俺は会社経営に対しては全力で取り組んでいたつもりだったよ。毎月全事業部の責任者と会議を行い、既存事業の改善、新規事業の発展のために力を尽くしていた。結局、頭の中はいつも会社のことを考えていた。もう少しで、会社全体をもっと良くできるはずだったんだ。でも、問題はそこじゃなかった。すべての原因は、俺が驕っていたことだったんだ。
本当に、死ぬほどへこんだよ。俺の生まれて来た37年間の意味は何だったのか。このまま落ちぶれてしまうんじゃないか。この俺が、人を信じることができなくなりかけていた。
でも、ある日考えたんだ。これからも俺の人生は続く。この1度きりの人生で何がしたいのか。俺はやっぱり屋上を広めたいと。当然いろんな反対を受けた。でも、俺の意志は強かったね。だって、屋上が大好きだったんだ。そこでようやく立ち直ってマンションと車を引き払って、家財も売り払って、本当に1から身一つで起業したんだ。
岩佐)そんな壮絶な過去があったんだね。で、今は独立して上手く行っていると。
岡崎)前の会社でコアサプライヤーだった会社の社長が、俺が会社を辞めた時すぐ俺のところに来てくれて、「富夢が起業するなら俺についてくる」と言ってくれたんだ。「この売上は君が作ったんだ。君が屋上業界からいなくなることは俺らにとっても大きな損失だ。君が起業するなら俺はついていく」と言ってくれたことも、俺の起業の後押しとなったんだ。今は家具も床材もフレームも、全部その一社が作っている。大量に海外で作らせて大量に在庫を仕入れて、俺らには一個単位で売ってくれる。在庫もしてくれる。それも3年で数十億売ったという化け物のような実績があったからやってくれるんだ。
岩佐)富夢ちゃんは獰猛なライオンだね。獰猛で、自由なライオン。
岡崎)そう、俺は飼いたくないし飼われたくない。自由にしがらみなく、やりたいことを全力でやりたい。俺は今決裁とかを捨ててるの。自分の自由を奪われたくないから、誰の自由も奪いたくない。誰にも雇われたくないし誰も雇いたくないのが本音。お互いに得意な分野も苦手な分野もあるけど、それを否定もしないしお互い認め合っている。全員が個として立ってうまくいく社会って絶対にあるのよ。
人間の生活をベンリにするのが『文明』だとしたら、人間の生活を豊かにするのが『文化』だという。屋上はまさしく後者だ。俺は屋上で人間を豊かにしたい。俺は日本で一番屋上が好きな男なんだ。
(おわり)
岡崎富夢
1977年1月23日、山口県出身。株式会社PASIO代表取締役。日本に「ラグジュアリーテラス」を広め生活を豊かにしたいとの思いから、株式会社PASIOを創業し「COLORS」という屋上テラスの開発・販売・施工を行う。