紙の世界から ―異文化と言葉 (「世界」1月号)
ネットには載っていないが、興味深い情報は紙の世界にもたくさんある。
しばらく、「外国で生きる」ことをテーマに、いくつか拾ってみたい。
月刊誌「世界」1月号に、米国人ながら日本語で書く作家リービ英雄さんと、ドイツに住み、日本語でもドイツ語でも書く多和田葉子さんの対談が載っていた。
すでに作家として独自の地位を築いたリービさんだが、私が最も衝撃を受けたのは小説「星条旗の聞こえない部屋」だった。ある米国人の青年が60年代の新宿で自分の居場所を見つけてゆく話で、自叙伝風でもあった。
なぜ衝撃を受けたのかというと、日本に住む白人系の外国人が日本社会を、日本人をどう見ているか、あるいは、日本人がどう見えているのかをリアルに描いていたことにはっとしたからだ。日本・日本人に対する白人・外国人の見方をこれほど明確に書いた小説はほかにはない「かも」しれない。小説の主人公からすると、日本人は徹底的に外国人である。読んでいてはっとし、ある意味では怖いような感じもあった。共感もあった。
というのも、私は当時外国人の友人が何人かいて、時々、「外国人」というプリズムを通して日本社会が見えるように思えたことがあった。それまでに知らなかった、全く違う光景がそこには広がっていた。この光景は、普通は日本語では書けない。日本人であれば、その光景は(普通は)見えないからだ。
リービさんは、日本人からすれば見えない日本を見事に日本語で表現したのだと思う。
「異なる視点を持つ一人として、一定の違和感を持って、自分の周囲を見る」ことを、私はリービさんの本を読んで、再体験した。
後でリービさんにインタビューする機会があったのだけれども、それをうまくリービさんには伝えられなかった。
多和田さんにもインタビューする機会があったが、今では何を聞いたのか忘れてしまい、ただ、非常に聡明な方だったことを覚えている。
「世界」の記事が興味深いと思ったのは、外国で生きることとは何か、異文化とはどう付き合うべきかについて、ヒントがあったからだ。
「外国で生活をしている人」=広い意味の「移民」としてとらえた場合、リービさんは対談記事の中で、こんなことを述べている。
「僕は移民であることは、じつはその国の人間になり切れないところに価値があるのではないかと考えます。どんなに生活がうまくいっていても、観点のずれが生じる」。
リービさんは、「多和田さんがドイツにいらっしゃるのもその例でしょう」と続ける。
「ドイツにいなければ、書けなかったかもしれない。もっと簡単に言えば、文学、特に世界文学は、いわゆる内部と外部の両方があるとすれば、外部にいながら内部のことを書く、その弁証法的な緊張感の中でつくりだされているものだと思います」。
「弁証法的な緊張感」というとなんだか難しそうに聞こえるが、「中にはいるのだが、外の人であること、外の人の視線で中の人が住む社会を見ること」=これこそが、外国に住む人=移民の一つのだいご味ではないかと思う。
その後、対談は難民・移民の話になって、多和田さんがこう続ける。
「たとえばわたしはドイツで幸せに生活していますが、文化に対する違和感は消えません。違和感を幸せととらえる感覚の持ち主だから幸せなのかも知れませんが。それは日本人だからドイツ人に違和感を持つわけではなく、人間が共同体に対して持つ基本的違和感です。それが異文化だとはっきり見え、生まれた時から慣れてしまった文化だと深く考えなくても同化してるみたいに生きていけるという違いがあるだけではないでしょうか」。
「そのことを意識的にテーマ化し続ける作家のわたしが、そうではない移民の若者の不満などに耳を傾けた時にいろいろ勉強になることがあるんです」。
多和田さんは、「日本人だからドイツ人に違和感を持つわけではなく、人間が共同体に対して持つ基本的違和感」(がある)と述べた。
「私自身はドイツの大学でも勉強する機会に恵まれ、ドイツ語でものを書いたりして、非常に同化しているみたいに見えますが、良い悪いではなくて、やっぱり違和感は持っています。だから非西洋からの移民の気持ちが理解できることがあるんです」。
これ以下も、興味深い会話が続く。リービさんや多和田さんの文学を知っている方や外国に住むことの意味、異文化などに関心がある方は、「世界」1月号を手に取ってみていただきたい。