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【守口市】語り部ガイドマイスターと「東海道五十七次 守口宿」難宗寺・盛泉寺を歩く!

てんまや地域ニュースサイト号外NETライター(大阪市)

今回、守口宿を知り尽くした語り部ガイドマイスターが、楽しく分かりやすく宿場町の京街道「文禄堤」(ぶんろくつつみ)を案内してくださいました。

「東海道五十七次 守口宿」難宗寺・盛泉寺を歩きます!

こちらは、八島の交差点から竜田通りにある大塩平八郎ゆかりの書院のあった白井家があった場所です。

白井家跡の説明板と石碑があります。

もりぐち歴史館(旧中西家住宅)とこちらの白井家のどちらかを残すということになり、中西家が残されたそうです。

現在は、マクドナルドの駐車場あたりです。

斜め向かいに守口宿本陣跡の説明板があります。

こちらは難宗寺です。

守口市でイチョウの木と言えば難宗寺、難宗寺と言えばイチョウというくらい大きなイチョウの木は地元では有名ですよね!

大阪府文化財の天然記念物に指定されています。

約400年もの間、自然災害などで枝が折れたりしながらも、多くの時を乗り越えてきた難宗寺のイチョウの木。

いちょう(銀杏)は水分が多く、燃えにくいので大きい建物の防火用に広く活用されているそうです。

1868年に明治天皇がご宿泊された記念碑「難宗寺行在所の碑」があります。

難宗寺前にある2本の道標は「左 京」「すぐ守口街道」とあります。

また2本の記念碑は、御行在所」とあり、明治天皇が慶応4年(1868年)に宿泊された所です。

御仮泊所とは、明治43年に大正天皇が皇太子の時に宿泊された所です。

そして、次が近くにある盛泉寺です。

教如上人を開基として、慶長11年(1606年)に創建された東本願寺の末寺で、「東の御堂さん」や「東御坊さん」と呼ばれています。

本堂は、近くにある「西御坊」の難宗寺と同様、元和元年(1615年)の兵火により焼失した後、幾度も風水害を受けてきましたが、天保6年(1835)に再建されて現在に至っています。※守口市HPより

こちらの石碑には「史跡 内侍所奉安所阯」 とあります。飯盛女のお墓があるようです。

難宗寺が守口西御坊、盛泉寺は東御坊と呼ばれているそうです。

橋の跡が守口市竜田通に残っていて、こちらが瓶(亀)橋跡です。

「かめはし」と書かれていて下の方が埋まっていますね。

東側と西側にあり、「瓶橋」の名前は「口を守ること瓶のごとし」からきています。

いつも通っている道によく見るとこのような貴重なものがあったのですね!

こちらは守口一里塚跡です。

この石碑が説明で後ろの木が一里塚となります。

幕府が江戸日本橋を起点に、街道の両側に一里ごと(約4km)に五間四方の塚を造り、その上に年中茂っている木を植えました。

木は榎(えのき)が多く、旅人たちが宿場町の出入り口と分かるように植えられていました。

一里塚跡は守口市浜町2-7-9にあります。

豊臣秀吉は、文禄三年(1594年)に大坂城と伏見城の二つの城下町を直結する目的で、淀川沿いに堤防を築き、上を道路とし宿場町となる京街道を作り、町に大きな発展をもたらしました。

古き良き、昔の街並みや建物の画像を記事で残していきたいと思います。

※撮影許可をいただきありがとうございます。

【文禄堤】大阪府守口市本町2丁目1

【一里塚跡】大阪府守口市浜町2-7-9

地域ニュースサイト号外NETライター(大阪市)

地域ニュースサイト号外NETライター大阪市ライター。大阪市の地域情報を独自目線で発信します!(2024年4月より守口市・門真市から大阪市に変わりました)

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