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本田、香川、長友ら北京五輪世代が飛躍したわけ。「三日三晩悩んだ」反町監督の眼力

元川悦子スポーツジャーナリスト
北京五輪・アメリカ戦に挑んだ日本(2008年8月、写真:アフロスポーツ)

大批判にさらされた北京五輪代表

 2008年8月、4大会連続で五輪出場を果たしたU-23日本代表は、隣国・中国の地でアメリカ、ナイジェリア、オランダとの熾烈な戦いに挑んだ。反町康治監督(現日本サッカー協会技術委員長)率いるチームの目標はもちろん1次リーグ突破。96年アトランタ、2004年アテネの両代表が味わった屈辱を晴らし、2000年シドニー世代と同じベスト8入りを果たしたかった。

 しかしながら、彼らの思惑通りに物事は運ばず、3戦連続黒星という最悪の結果を強いられた。反町ジャパンは大いなる批判にさらされたが、北京五輪に赴いた18人のメンバーのうちA代表入りしたのは17人。「将来を見据えた指揮官の選考」が日本サッカーのその後の10年の礎を築くことになったのである。

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3戦黒星・総得点1総失点4の惨敗

 反町ジャパンの初戦は天津で行われたアメリカとの初戦。スタメンには西川周作(浦和)、長友佑都(ガラタサライ)、内田篤人(鹿島)、森重真人(FC東京)、本田圭佑(ボタフォゴ)、香川真司(サラゴサ)、森本貴幸(福岡)らのちのワールドカッププレーヤーをズラリと揃えた日本には大きな期待が寄せられた。しかし、攻撃陣が思うように機能せず、後半開始早々に失点。そのまま巻き返すことができないまま、重要な一戦を0-1で落としてしまう。

 これが響いたのか、続く2戦目も2点を先行される苦しい展開。途中出場の大型FW豊田陽平(鳥栖)が一矢報いるゴールを決めたものの、試合はそのまま終了。2連敗で早くも決勝トーナメント進出の道が途絶えた。会場を瀋陽に移して挑んだラストのオランダ戦も0-1で完敗。力の差は大きく、日本に突き付けられたのは、3戦全敗・総得点1総失点4という無残な結果だった。

若年層からの国際経験の不足が足かせに

「北京が初めての国際大会だった選手は凄まじい緊張ぶりだった。長友なんか最初の入りがひどくて、前半15分で安田(理大=千葉)をアップさせたほどだ。あいつが今みたいに海外でプレーしている選手ならもっと堂々と戦っていたはず。世界大会を日常と感じるくらいにならないとやっぱり難しい。世界大会っていうのは、時差やコンディショニング、食事の問題など特殊性があるし、U-20世代でワールドカップを経験しているかどうかで違ってくる部分は多少なりともあると思うよ」

 反町監督は松本山雅を率いていた2013年のインタビューでこう語ったことがある。確かに北京五輪代表18人を見ると、U-17・U-20ワールドカップ経験者は7人だけ。日本サッカー界が世界への壁をこじ開けたばかりのアトランタ世代は6人という少なさだったが、シドニー世代は12人、アテネ世代はオーバーエージの小野伸二(琉球)らを含めると11人がすでに世界を経験していた。が、北京世代は2005年U-20ワールドユース(現ワールドカップ=オランダ)組の生き残りが少なく、2007年U-20ワールドカップ(カナダ)組も3人が滑り込んだだけだった。指揮官の言うように下からの国際経験の積み重ねの重要性を彼らはまざまざと感じたというわけだ。

北京から飛躍的成長を遂げた選手たち

 五輪本番では散々な結果だった北京世代だが、その後の成長度は凄まじいものがあった。ご存じの通り、2010年南アフリカワールドカップメンバーに食い込んだのは長友、内田、本田、岡崎慎司(ウエスカ)、森本の5人。2014年ブラジルでは森本が外れたものの、西川、森重、吉田麻也(サンプドリア)、香川が加わって総勢8人になった。豊田や李忠成(京都)、細貝萌(ブリーラム)もザックジャパン時代は重要な働きを見せている。2018年ロシアまで残った選手も多く、反町監督もしばしば「A代表になれなかったのは陽平(梶山=FC東京アカデミーコーチ)1人だけ」と語っていた。

 つまり、北京世代は五輪を契機に大きく飛躍して、「五輪経由ワールドカップ行き」を果たした選手が多かったということだ。なぜ彼らがそのような歩みを見せたのか。そこは反町監督の選手選考によるところが大だったと言っていい。

吉田麻也サプライズ選出の秘密

「俺が彼らを選んだんじゃなくて、彼らが俺を選ばせた。それだけ光るものを持っていたってことだ。五輪代表は結果も大事だけど、成長はもっと大事。言い訳に聞こえるかもしれないけど、先を見据える必要があると思っている。高いレベルに上り詰められる選手というのは、スペシャリティを持っていて穴がないし、なおかつポテンシャルも感じさせるんだ。

 例えば、吉田麻也。俺はあいつを入れるかどうかで三日三晩、悩んだ。2008年時点では同じポジションの青山直晃(鹿児島)より下だったかもしれない。だけど、麻也のスキル、メンタル、戦術眼、グローバルな舞台で戦える力とかいろんな部分を見て、最終的に選ぶ決断をした。指導者はそういう先見性を持ち、見る目を養うことが重要だと思うよ」

 その見立て通り、吉田麻也は2010年のVVVフェンロ移籍を機にジャンプアップし、アルベルト・ザッケローニ監督就任後の日本代表に22歳で選ばれ、そのままレギュラーに定着。今ではキャプテンマークを巻くレベルの圧倒的な存在になった。

ゴールに突き進み始めた本田

 本田にしても北京まではアタッカーなのかパッサーなのか中途半端な位置づけだったが、「北京の後、オランダ2部でプレーするようになって、自分のスタイルを確立させようと思った。俺は自分を模索してることが多くて、ユースの時はボランチもやったし、名古屋グランパスでは左サイドバックも3-5-3のトップ下もやった。そんな自分がもっとゴールを目指さなきゃいけないと思った。やっと自分が定まってきたという確信を持ってます」と2008年10月の取材時に毅然とした表情で語り、点取屋としての道を邁進した。

 長友や内田、香川、岡崎にしてもそうだが、北京で挫折したことが飛躍の原動力になったのは間違いない。五輪で問われるのは「結果」だけでなく「その後」だということに気づかせてくれたのが北京世代であり、反町監督だったのではないだろうか。

反町氏は卓越した眼力を今後の日本代表に生かすべき

 眼力に長けた指揮官はこの3月、新型コロナウイルス感染拡大で未曽有の混乱に陥っている日本サッカー界の舵取り役である技術委員長に就任した。北京五輪代表に加え、プロヴィンチャ(イタリア語で地方クラブの意)のアルビレックス新潟や松本山雅を率いた経験も加味しながら、再び本田らのような強烈な個性を持つ選手を引き上げるように努めてくれるだろう。

 そして、18人のメンバーの方も梶山や谷口博之(鳥栖スカウト)のように現役を退き、後進の育成やタレント発掘に携わる者が出始めている。彼らには貴重な体験を東京五輪以降の若い世代に還元することを期待したいし、北京世代を超えるスケールの大きなタレント集団を生み出すべく、様々な形で貢献してほしいものである。

スポーツジャーナリスト

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から7回連続で現地へ赴いた。近年は他の競技や環境・インフラなどの取材も手掛ける。

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