世界を揺さぶるアベノミクスの波紋 財政ファイナンスは正当化できるか
英国の新聞で「アベノミクス」を目にしない日はなくなってきた。18日の英紙フィナンシャル・タイムズ電子版で「アベノミクスが英中央銀行・イングランド銀行の新総裁に連鎖、ヘッジファンドが英通貨ポンド売り狙う」と報じているのを見て、飛び上がった。
英国に在住する日本人にとってポンドは1ポンド=117円(2011年9月)から148円近くまで26%も上昇したばかり。
7月にカナダ中央銀行からイングランド銀行総裁に就任するマーク・カーニー氏は金融緩和を一段と進めるとみられているため、今度はポンドが下がるというわけだ。
為替の乱高下で大喜びするのはトレーダーだけだ。
英国在住の日本人の方々と話していると、1960年代の1ポンド=1000円超から750円、500円と時代につれてポンドの価値が下落したことを実感できる。世界金融危機前の2007年に渡英した筆者の場合は250円だった。
日本の円もポンドと同じ運命をたどって、最終的には企業も土地も外国資本に買い漁られる可能性があると思うと、アベノミクスによる円安、株高、輸出促進のプラス効果を喜んでばかりはいられない。
昨年秋、野党・自民党総裁だった安倍晋三・現首相が財政政策、金融緩和、成長戦略の3つを柱にする「アベノミクス」を提唱した。英国ではその後、これまで禁じ手としてきた財政ファイナンス(マネタイゼーション)を限定的に正当化する論調が目立っている。
間もなく退官する英金融サービス機構(FSA)のターナー長官は6日のフィナンシャル・タイムズ紙のインタビューやシティー大学カスビジネススクールでの講演で、財政ファイナンスを正当化した。
中央銀行が政府の債務を肩代わりして貨幣化することは「財政ファイナンス」または「マネタイゼーション」と呼ばれ、ハイパーインフレーションやハイインフレーションを引き起こすとしてタブー視されてきた。
歴史上、中央銀行がお札を刷って財政を支えた多くの国家がハイパーインフレーションに見舞われてきた。このため、中央銀行は財政ファイナンスと疑われないように、政府からの独立性を確保し、国債の直接引き受けを禁じている。
しかし、ターナー長官は中央銀行による国債の直接引き受けについても、「もし需要が低ければ、財政ファイナンスはQE(量的緩和)や財政出動より有効だ」との見方を示した。
カスビジネススクールでの講演のタイトルは「債務、マネー、メフィストフェレス」だったが、まさにメフィストフェレス的手法を正当化してみせたのだ。
「無制限緩和は取り出してはいけないリスクであるのは間違いない。しかし、使いすぎれば毒になるが、使い方を限定すれば薬にもなる。一定の状況下ではこのリスクを取るのは適切なことだ」
として、ターナー長官は1930年代のドイツ、金融バブルが破裂した1990年代の日本は、無制限緩和を導入すべきだったと分析した。
もし日本が過去20年間、財政ファイナンスを行なっていればもっと高い名目国内総生産(GDP)成長とデフレ脱却、より高い実質生産高を実現でき、対GDPの政府債務レベルは今よりも低く抑えることができただろうと指摘した。
メフィストフェレスとはゲーテの戯曲「ファウスト」に出てくる悪魔の名前だ。メフィストフェレスはファウストと契約を結び、魂と交換に欲望をかなえる魔法の力を与えた。しかし、ファウストは最後に破滅してしまう。
メフィストフェレス的財政ファイナンスを正当化する声が、イングランド銀行総裁の次期有力候補だったターナー長官から発せられたことに筆者は2つの意味で驚いた。
さまざまなグラフをながめていると、中央銀行の国債購入が進めば進むほど長期金利は安定していることがわかる。「このまま買い進めても長期金利は下がり続けるのだろうか」と、筆者自身、考え始めていたからだ。
それと、そんな邪悪な手法が許されるのかという思い。
新しくイングランド銀行総裁になるカーニー氏が財政ファイナンスまで考えているかどうかはわからないが、さらに量的緩和を進めるのは間違いないと市場は判断している。英国は今、世界金融危機後の三番底を回避しようと懸命になっている。
銀行も企業も家計も借金を返そうとしている時、政府が需要不足を埋めてやらなければ景気は後退する。ヘタをすれば日本のようにデフレが慢性化する恐れもある。
「このまま政府の借金を増やし続けるよりも、お札を刷り続けたほうがずっとましだ。でも中央銀行の独立性は守らないといけないぞ」と筆者に言い切ったフィナンシャル・タイムズ紙のマーティン・ウルフ氏も最近のコラムで「金融危機に対処するため財政ファイナンスをするのが常に間違っていると考えるのは間違っている。それは道具箱に入れて置かなければならない」と指摘している。
世界金融危機後、いち早く量的緩和に踏み切った英国の当時の財務相ダーリング氏に対し、筆者は「財政ファイナンスは正当化できるのか」という質問をぶつけてみた。
14日、ロンドンの海外特派員協会(FPA)で講演した後、筆者のぶら下がり取材に応じたダーリング氏は「量的緩和であれ、何であれマネタイゼーションには変わりはない。あの時は金融危機を防ぐため量的緩和を行った。現政権は景気後退を防ぐためにさらなる緩和を行おうとしている。ある国に当てはまることが他の国に当てはまるとは限らないので一般化は避けたい。日本について語ることはできないが、新しい政府と新しい中央銀行総裁で長期の低成長、ハイレベルの政府債務を克服して経済を上向きにしようとしている」と話した。
英国では使えるのなら財政ファイナンスも使うべきだという意見が主流になってきている。
元日銀審議委員でクレディ・スイス証券の水野温氏はロンドンで開かれた日本証券サミットで「日本の経常黒字は2016年になくなる」と予測した。
経常収支の黒字、世界一の対外純資産、外貨準備、1600兆円といわれる金融資産など、国債の国内消化を支えてきた最初の砦はもはや崩壊寸前だ。
欧州債務危機を乗り切るため、南欧諸国の国債の無制限購入に踏み切った欧州中央銀行(ECB)のバランスシートは対GDP比で日銀を上回るスピードで拡大したが、危機が収まった後は縮小し始めている。一方、アベノミクスで日銀のバランスシートは対GDP比でECBを追い越し、40%に到達するのは必至だ。
日本の長期金利は落ち着いたままなのか。それとも中長期的には、上昇を始めるのか。ターナー長官が言うように「財政ファイナンスは毒にも薬にもなる」かもしれないが、毒と薬の分岐点について解明できればノーベル経済学賞に値する。それほどの難問なのだ。財政が発散すると市場参加者が思い始めれば、長期金利が上昇して、いずれ財政は破綻、通貨が暴落してハイパーインフレーションが起きるが、それがいつ訪れるかは誰にも分からない。
(おわり)