【光る君へ】「わしが公卿だったら・・・」藤原実資の数奇な人生!道長・紫式部との関係は?(家系図)
NHK大河ドラマ『光る君へ』。世界最古の女性文学『源氏物語』の作者・紫式部と、平安時代に藤原氏全盛を築いた藤原道長とのラブストーリー。
この大河ドラマを見るまで、「道長以外の藤原氏を挙げよ」と聞かれて即座に答えられた人はどれくらいいたでしょうか。それが今では父・兼家に兄の道隆・道兼にF4(藤原4)と呼ばれるイケメン衆の名前はすっかりおなじみになりました。
そして雅やかだと思っていた平安時代に、花山天皇や道長の父・兼家や兄・道兼のような濃いキャラの人物がいたことにも驚きです。
さて、今日はそんな中からロバート秋山さん演じる「藤原実資(さねすけ)」にスポットを当てます。
これ一枚で登場人物の関係性がスッキリ!藤原北家中心の家系図
最初に彼と道長・紫式部の関係がよくわかる系図をご紹介!
実資、花山天皇に「蔵人頭を頼む」と何度もいわれても断ったり、天皇の後見である藤原義懐(よしちか)に「天皇にもっと女をあてがえ」といわれても断ったり…はっきりいいすぎなんちゃう?なんでこの人は左遷されないの?と、ちょっと不思議な人物。
色黒でやんごとない生まれには見えませんが、彼は実は道長たちよりも血筋の良い生まれなのです。
もともと、藤原北家の嫡流(メインの系統)は、この図の右側・藤原実頼(さねより)の系統(小野宮流)。 実資や公任(演:町田啓太)の家系です。
現在の大河ドラマの時代は、太政大臣は小野宮流の頼忠で中宮は遵子、公任の父と姉です。しかし、実頼も頼忠も天皇の外戚となることができず、実頼の弟の師輔の九条流(兼家・道長の家系)に実権が移っていくことになります。
曲がったことが大嫌い!な実資は道長批判もマメに日記に記した
藤原嫡流のプライドを持つ有能な官僚
藤原北家の嫡流である祖父・実頼の養子となった実資は、権勢が祖父の弟の家系に移ってからも「我こそは藤原北家の主流・小野宮流の嫡流」という自負を強く持っていたと考えられます。
実資といえば、なんといっても日記『小右記』(しょうゆうき / おうき)が有名です。彼は90歳まで生きて、21歳から60年以上日記をつけていました。名前の由来は彼が右大臣だったため、『小野宮右大臣家記』の略だとされます。
当時の日記は「人に見せない」「個人的なもの」ではなく、公開前提のものでした。主に子孫に向けて、行事などを担当したらこのように滞りなくおこなうようにという「マニュアル」のようなものだったようです。実務能力の高い彼が非常に詳細まで書いているため、同時代のほかの記録にはないことが記載され、この時代を知る一級資料とされています。
シリアスな物語の一服の清涼剤、お約束の「日記にお書きなさい!」
彼は日記の中に個人的見解も書いており、たびたび道長や政情を痛烈に批判しています。
ドラマ内でも花山天皇の側近・義懐(よしちか)に「怠慢だ」といわれて怒り心頭。「わしを公卿(大臣や大納言などの高官)にしておれば」とグチグチ同じ愚痴を繰り返しては、奥方(演:中島亜梨沙)に「日記にお書きなさい」とぴしゃりといわれています。もはや「お約束」のコントの様相です。
実資の『小右記』によって後世に伝わったことは少なくありません。
道長が詠んだ歌として有名な「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる ことも なしと思へば」(この世はわたし道長のためにあるようなものだ。望月(満月)のように欠けたところがまったくない)の和歌も、実資が記録したことでのちに知られることとなりました。
道長は実資を煙たがりつつも認め、何かと重宝した
祖父同士が兄弟のため、道長と実資は「はとこ」にあたります。藤原公任(演:町田啓太)と実資は従兄弟同士。実資は道長より9歳年上です。(公任と道長は同じ年)
『小右記』においては道長を批判をしつつも、能力や人物を評価していた部分もあり、表立って対立はしませんでした。道長もまじめで融通の利かない実資を「うっとおしいな」と思っていたかもしれません。しかし、実務能力が高く「実資に任せれば間違いがない」ため、彼に一目置いて頼りにしていたと考えられています。
道長は花山天皇の弟・三条天皇と対立。ほかの公卿たちが道長におもねる中、実資は中立の立場を貫きます。孤立した天皇は実資を頼るようになり、実資は筋道の通らない道長の天皇への嫌がらせに、毅然とした態度を取り続けました。
紫式部と実資、日記にお互いについて書き合う
『紫式部日記』の中の実資
『紫式部日記』には実資が登場します。1008年、土御門殿で開催された敦成親王(後一条天皇)生後50日の祝いの席のことを式部は細かく描き残しています。酔っぱらった公卿たちは大騒ぎ。女房たちの顔を見ようと調度を壊し、セクハラもどきのふるまいをする者もいました。
そんな中、式部が「この方はほかの方とは違う」と書き残したのが実資。実資は、女房たちの着物の五衣(いつつぎぬ:十二単の重なり部分、5枚を基本としたためこう呼ばれる)の枚数を数えていました。
これはもちろんセクハラでも衣装の美しさをめでていたわけでもありません。贅沢禁止令を女房たちが守り、過度に衣を重ねていないかをチェックしていたのです。さすが、宴会の席でも職務を忘れなかったのですね。
『小右記』の中の紫式部
実資の日記『小右記』にも紫式部が登場します。1014年6月25日(長和2年5月25日)に「『越後守為時女』なる女房が取り次ぎ役を務めた」と記載があります。当時は女性の名前が表に出ることはなく、「為時の女=為時の娘」と書かれました。
式部は、礼儀にうるさい実資のお眼鏡にかない、彼の担当女房になったのだと考えられます。
長年この1014年の記録が式部の記録として最後に残されたものとされ、ここから式部は1016年頃に没したという説が有力でした。現在は『小右記』に1019年に書かれた女房も紫式部だとする説など諸説あり、定説がありません。
大恋愛で結婚、90歳で大往生、長生きの秘訣とは?
まじめな堅物の実資ですが、もちろん女性も嫌いではなかった、いやむしろ大好きだった模様。実は実資は、最初の妻を若くして亡くしており(おそらく現在登場している桐子)、娘も数年後に失っています。こう書くと、ドラマの夫婦コントのようなシーンも感慨深いですね。
その後、花山天皇の女御だった婉子(えんし/つやこ)女王と大恋愛の末に結婚。婉子女王は実資より15歳年下でした。
2人は仲睦まじかったようですが、子どもはできず、婉子女王は27歳でこの世を去ります。実資自身は前出のように90歳まで生きました。婉子女王の死後は妻をめとることはありませんでしたが、生涯女性に手を出すことは辞めなかったといいます。
実資の好敵手だった道長は、中年以降体調不良に悩まされ、糖尿病に苦しんだ末に62歳で死去。実資はそこからさらに20年近く生き永らえます。
自分の中に一本筋の通った軸を持ち、自分を曲げることなく良識人であり続けた実資。敵を作ることなく多くの人に愛され、従一位・右大臣まで昇進した彼の生涯は、理想的といえるかもしれません。
あんなに怒ってばかりいてよく長生きできたな、ストレスはたまらなかったのだろうかと不思議な気もします。しかし、筋の通った生き方をすることで、後悔の少ない人生だったのかもしれないと考えると納得もできます。
彼の長生きの秘訣は、こんな感じでしょうか。
①生涯恋をし続けた
②日記に書いて発散した(60年間も!)
③良心に逆らうことはしない
うーん、意外と大変かもしれません。①は既婚者には無理ですし、②は普通の人には1年続けるのも難しいでしょう…
となると、③を心がけるのが、意外と近道なのかもしれません。実資を見習って「嘘のない人生」筆者も心しようと思います!
(イラスト・文 / 陽菜ひよ子)
主要参考文献
フェミニスト紫式部の生活と意見 ~現代用語で読み解く「源氏物語」~(奥山景布子)(集英社)
ワケあり式部とおつかれ道長(奥山景布子)(中央公論新社)
紫式部日記(山本淳子)(角川ソフィア文庫)