口永良部島 噴火のその後 〜島医者の経験から考えた〜
『とにかく、島に帰りたい』
「避難中の住民の方はみな、そう思っていることでしょう。」
三宅村中央診療所所長の舘野佑樹(たてのゆうき)医師は、私にこう語った。
「しかし、全島避難の期間が長くなると、帰島は現実的には難しいかもしれません。」
口永良部島(くちのえらぶじま)。不思議な島の名前だ。「近いところにある海人の島を意味する島名」という説があるらしい。
鹿児島県、世界遺産で有名な「屋久島」のすぐお隣のこの島は、先日5月29日に噴火し「全島避難」の指示が出された。137人の島民はみな現在も避難所生活などを送る。6月10日現在も火山活動が高まった状態が続いており、噴火警戒レベルは最高の「5」である。
「全島避難」聞き慣れない言葉。
島に住んでいる人全員が島を出てよそへ行き、避難生活を送るということだ。
前回の「全島避難」はそういえば三宅島だった。十五年前、2000年のことだ。テレビのニュースでは連日噴火の映像が流れた。避難指示解除に4年半もの月日を要した。
だが、その後の三宅島を知る人は少ない。
「3000人いた人口の2/3が帰島したものの、その多くは高齢者でした。5年間の避難生活のうちに避難先(多くは東京都内)で仕事を見つけていた40・50歳代の方や、子供の就学がからみ島に帰れなくなった人が多い。」(舘野医師)
つまり「働き盛り世代」がいなくなり、現在では老老介護と独居の高齢者が多いそうだ。
現在では、口永良部島の「全島避難」の期間は長期化することが予測されている。
もし長期化した場合、いったいどんなことが起こるのか?
「全島避難の期間が長くなると、離れ離れの避難生活が続くわけですから島民どうしのつながりが希薄になってしまうかもしれない。そして避難の期間が長期(年単位)になれば、有人の島としての存続が難しい可能性も出てきます。産業の担い手が帰れるかどうかがポイントでしょう。」と舘野医師は続ける。
実際問題、避難生活が長引いて心配なのは島民の方々の健康だ。
これまでの医療情報(つまりカルテ)もなく、検査結果もない。おくすり手帳だってない。高血圧や糖尿病などの持病を持つ方の医療のフォローは十分だろうか。私が島で診療していた時にも、「高血圧」「糖尿病」「脂質代謝異常症(高脂血症)」などの慢性疾患を持っている方は実に多かった。
そして定期検診やがん検診などの自治体が行うサービスは、十分に行き届くのだろうか。誰か鹿児島県庁にそういった担当者はいるのだろうか。
そして故郷からの突然かつ強制的な離別、ご近所づきあいの断絶、衣食住すべての大幅な変更による、精神的なストレスも多大にかかる。これからの生活やお金の不安、帰島できるのかどうかなどの不安もさらにメンタルへの負荷になる。ご高齢の方の認知症が一気に進んでしまうなどの懸念もある。
さらに、慣れない環境での生活はこれまでの住み慣れた家、住み慣れた町とは勝手が違う。島でご近所どうし助け合っていた部分は消失する。おそらく自立した生活が保てなくなる方もいるだろう。福祉や介護の介入が早々になされる必要がある。
今回の噴火とよく似たケースがあった。時代は江戸時代にさかのぼる。
伊豆諸島の青ヶ島(あおがしま)は、江戸時代に大爆発し200人程度の島民のうち2/3が死亡、残りは八丈島に避難した。そして何度も何度も復興を試みて、最終的な帰島には30年以上かかったのだ。これを「環住(かんじゅう)」と呼んだのは民俗学者の柳田國男だった。
30年という月日をかけ、世代が交代したとしても故郷の島に帰りたいという思いが伝わってくる。
島の避難情報をまとめたサイトがある。
「口永良部島ポータルサイト」の、
「えらぶ避難所ニュース」http://kuchi-erabu.org/
だ。
など、生々しい言葉が目に止まる。
中でも「うれしい便りが届きました。被災者の皆さんへの求人です。」は衝撃的。
避難生活が始まってまだ数週間だというのに、仕事のことを考えねばならない。島民の方々の苦境が身に染みた。
メディアから噴火のニュースはあっという間に過ぎ去ったが、被災者の方々の生活は始まったばかりなのだ。
何十年経っても、そしてどんな困難を乗り越えてでも生まれ育った自分の島に帰りたい。不便でも、活火山があっても、仕事がなくなってしまっても。そこに理屈なんかない。
かにかくに渋谷村は恋しかり
おもいでの川
おもいでの山
(石川啄木)
避難の長期化が懸念される中、島民の方々の「帰りたい」という思いが胸に詰まる。避難生活が長引けば、島民の健康への不安が増え、さらに「口永良部島」というコミュニティーの存続の危機だ。
何かできることはないだろうか。支援の輪を広げたい。
(参考)
口永良部島ポータルサイト(http://kuchi-erabu.org/index.html)