苦節9年目で初重賞勝ちを記録した騎手と、元の師匠ら彼を取り巻く人達の物語
美浦から騎手デビュー
「人生で初めて取材を受けます」
美浦トレセンでの当方の取材に対し、あどけない表情でそう語ったのが2012年の長岡禎仁。当時はまだ競馬学校を卒業したばかりだった。
その少し前には彼のデビューを報せる封書が届いていた。差出人は小島茂之。長岡の師匠だった。
それから7年後の昨年、長岡と一杯やる機会があった。場所は美浦から京都に変わっていた。その宴席で「タイミングがあればまた記事にさせてね」と約束をかわした。
1993年9月、和歌山県和歌山市生まれ。会社員の父・寿明と主婦・小都子の下、姉と育てられた。バスケットや水泳などに興じた幼少時には陸上の走り幅跳びで5府県大会5位、テニスを始めると近畿大会に出場するほどのスポーツ少年だった。
中学生の頃、家族旅行で経験した乗馬で馬を知った。競馬場へ連れて行ってもらいエリザベス女王杯を観戦。フサイチパンドラが勝利した瞬間を目の当たりにした。
「繰り上がりの優勝だったけど、単純に騎手に憧れました」
すぐに乗馬を始め、中学卒業と同時に競馬学校に入学した。同期には関係者の子供もいて、最初の頃は授業についていくのに必死だった。しかし、持ち前の運動神経の良さもあり、卒業する時には成績優秀な生徒に贈られるアイルランド大使特別賞を受賞。12年3月、美浦・小島茂之厩舎から無事にデビューを果たした。
「小島先生には礼儀作法から、基本的な考え方まで教育していただきました」
長岡はそう言うが、当の小島は次のように語る。
「実社会の経験がなかったので考え方に甘いところがあったのは事実です」
例として次のような逸話を語る。
「ある日、厩務員の手伝いをしていたので『騎手なんだから木馬に乗りなさい』と指示しました。でも、しばらくすると今度は飼い葉作りを手伝っている。だから『木馬は?』と聞くと『終わりました』と答えるんです。真面目なのは分かるけど、騎手になる努力に終わりなんてない事を理解出来ていないと感じました」
更に続ける。
「『1日36レース、全部チェックしている騎手もいるから、自分もそうしなさい』『騎手のインタビュー記事も全部読みなさい』と、そんな事も言いました。でも、教育的な話をした覚えはありません。ご両親の躾が良かったので、そのあたりは普通に出来る子でした」
そんな師匠と話すうちに「感謝の気持ちを忘れずに、人柄も好かれて信頼されるジョッキーにならなくてはいけない」と考えるようになったと長岡。しかし、立派な思想も最初の頃は成績に結び付かなかった。初勝利は年も押し迫った12月9日。長岡は、レース後、ハッとした。
「その日は母の誕生日でした。勝てなくて無我夢中だったので、レースが終わってから気付きました」
1年目の勝ち鞍はこの1つに終わった。しかし、2年目にはチャンスを求めて栗東での滞在を志願。小島が認めてくれた事で実現すると、毎年、徐々に勝ち星が増加。5年目の16年はキャリアハイの19勝をマークした。
「途中、2度ほど落馬して戦線を離脱しました。その都度、乗り鞍が減ったけど、高市(圭二)調教師ら、助けてくださる方もいて、何とかそのたびに復活出来ました」
転機となった大怪我
ところが本当の地獄がまだこの先に待っていた。17年4月の中山競馬。馬群の内を突いた長岡は当時を次のように述懐する。
「突っ込めば着を拾えると思いました。未勝利戦だったので馬のためにも1つでも上の着順を、と思って無理をしてしまいました」
狭いところへ入って、馬が怯んだ。次の刹那「進路がなくなった!!」と思った時には落馬。ダートに背中を強打した。
「息苦しかったけど、自力で救急車に乗れたので、次の日の競馬は大丈夫だろうと感じました」
ところが救急車の中で出血がひどくなった。同時に気を失いそうになるくらい尋常でない痛みに襲われた。診断の結果は腎臓破裂。医者の声がまるで死刑宣告のように内耳に響いた。
「騎手を続けられないと思うくらい落ち込みました」
入院中に気を病みそうになった長岡は3週間後に半ば強引に退院。和歌山の実家へ戻り、地元の病院に通院した。
「家族や友達が励ましてくれて、勇気をもらえました」
こうして引退を思い留まると、リハビリ中にはある新馬の血統が目に止まった。
「自分が初めて競馬場へ行った時にG1を勝ったフサイチパンドラの仔がデビューしました」
8月の新馬戦では2着に敗れたアーモンドアイだった。約1ケ月後の9月には騎乗を再開した長岡だが「騎乗依頼はほぼ0になっていた」。自分なりには頑張っているつもりだったが、乗れない事には結果も何もない。そんな苦しい時に、新馬で負けていたアーモンドアイが戦列復帰すると、一気に開花。18年に桜花賞(G1)とオークス(G1)を連勝した頃、長岡は思った。
「騎手としてこういう馬に乗れるようにもうひと頑張りしよう!!」
フリーになり、甘えられない立場となると、藁にも縋る想いで、6月からまたも栗東へ行った。
環境を変えて新たなスタート
「小島先生は快く送り出してくださいました。栗東では高橋亮厩舎でお世話になりながら、小島厩舎の調教助手から紹介していただいた杉山晴紀調教師の調教にも乗らせていただきました」
1年後の昨年、正式に籍を関西に移した。すると今年の2月には杉山からフェブラリーS(G1)に出走するケイティブレイブの騎乗依頼を受けた。自身初のG1騎乗だった。
「ひと月くらい前に言われたのですが、最初は驚いて耳を疑いました。後から冷静になって、改めて杉山先生にお礼の連絡をしました」
レース6日前には「苦しい時に助けてくれた」高市が逝去。故人に朗報を届けたい気持ちも胸に騎乗をすると、16番人気という低評価を覆し、2着に善戦した。
「毎日、調教で乗っていた馬だったので緊張せずに力は発揮出来ました」
そして同じ杉山から依頼を受けたのが16日に行われた小倉記念(G3)のアールスターだった。長岡は言う。
「立ち上がったり、尻っ跳ねをしたりと気難しい面のある馬でした。だから調教では前運動からじっくり時間をかけてコンタクトを取るなどすると、徐々に安定して勝てるようになりました」
今年に入り、同馬の調教に乗れないでいると、凡走を繰り返した。ゲートインも再三拒否。そこで再び長岡が調教から騎乗し、レースにもコンビで臨む事になった。長岡は言う。
「杉山先生は人情味にも厚く、競馬でも乗せてくれる事になりました」
一方、決断をした杉山は言う。
「関西に来た時点で背水の陣という雰囲気を本人から感じました。でも、レースでの騎乗は僕ではなくて、承諾してくれるオーナーのお陰です。自分としては人情で乗せているわけではありません。ケイティブレイブもアールスターも普段から調教に乗って彼が手の内に入れていると思えた。これは競馬でもアドバンテージになると思い、依頼したまでです」
小倉記念で重賞初制覇
「お?! 重賞に乗せてもらえているんだ。良かったじゃないか……」
小倉記念の出馬表を見て、そう思ったのは小島だ。更に続ける。
「自分のところはアウトライアーズとロードクエストを使っていました。長岡の馬は人気もなさそうだし、正直、とくに注目はしていませんでした」
当日のアールスターについて、長岡は言う。
「前走で騎乗した浜中(俊)さんが『発走前のポケットで歩きたがらなかった』と言われていたので、そこはあえてシャキシャキと歩かせました。その成果もあったのかゲートに入ってくれたし、スタートも出てくれました。道中も終始、手応えは良かったです」
直線では狭いところを突いた。以前、落馬をして大怪我を負ったコース取りにも近かったが、恐怖心はなかった。それよりもチャンスをくれた関係者に応えたいという気持ちが優ったのだ。
一方、移動制限により現地には出向けず、画面越しに観戦していた小島は述懐する。
「見せ場を作ったロードクエストが止まってしまうのと入れ替わるようにしてアウトライアーズが伸びてきました。でも3着が精一杯でした」
それでも「頑張ってくれた」と思い、テレビの前を立ち去ろうとした彼の耳に思わぬ実況が飛び込んだ。
「『長岡!!』という声を聞き『え?!』と思いました」
踵を返し、再び画面に目を戻すと、重賞初制覇を飾ったかつての弟子が大映しになっていた。小島は更に続けて言う。
「チャンスをモノにしたのは立派だと思いました。すぐに彼の両親と杉山調教師にメールを打ちました」
杉山は言う。
「小島先生は顔を見れば『ありがとう』と言ってくださるけど、むしろこちらは助けられています。現在の長岡があるのは、若い時、小島先生が指導をしてくれたお陰です」
当の本人である長岡は「次は高橋亮先生の馬でも勝ちたい」と言い、更に続けた。
「居場所を与えてくれた高橋先生、チャンスをくださった杉山先生、そして師匠の小島先生には常に感謝をしています。その上で皆からも好かれて信頼されるジョッキーにならなくてはいけないと考えています」
“感謝して、好かれて、信頼される”。それはデビュー当初から掲げていた彼の理念だが、本人は次のように言う。
「昔は口ではそう言っても、実際、自分がどこまで理解していたか分かりません。だから本当の信頼関係を築けず、落馬のたびに乗り鞍がなくなったのだと思います。でも、落ちて休んで乗り馬がいなくなるという経験を重ねた事で、この言葉の本当の意味が分かりました」
デビュー9年目で初重賞制覇を飾った彼が勝ちたいと願っているレースが2つある。1つは日本ダービー。そして、もう1つは「長岡ステークス」と言って笑う。いやいや、また重賞を勝って満面の笑みを見せてくれる事を願いたい。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)