【光る君へ】定子の悲劇と道長妻・倫子&明子の関係にみる、現代とは違う平安の結婚観とは?(家系図)
NHK大河ドラマ『光る君へ』。世界最古の小説『源氏物語』の作者・紫式部(まひろ)(演:吉高由里子)と、平安時代に藤原氏全盛を築いた藤原道長(演:柄本佑)とのラブストーリー。
長保二年(1000年)、「一帝二后」の成立もつかの間、皇后定子(演:高畑充希)はお産がもとで崩御。かなしすぎる…
清少納言(演:ファーストサマーウイカ)と「ずっと一緒に」と笑い合った直後の死に、衝撃を覚えた視聴者も多いだろう。
道長は妻・源明子(演:瀧内公美)の邸宅で倒れ、北の方(正室)の源倫子(演:黒木華)と顔を合わせ、バチバチのバトルが展開。
そんな道長を死の淵から引き戻したのは、妻のいずれかでもなく、彼の夢の中に現れたまひろだった。
まひろ(紫式部)と夫・藤原宣孝(演:佐々木蔵之介)の結婚生活は順調だが、おそらく宣孝にもカウントダウンが近づいている。
さて、今回は倫子と明子の関係や、一条天皇を諫めた藤原行成(演:渡辺大知)の言葉などから、「平安時代の結婚制度」について考えてみたい。
◆道長の正室はなぜ明子でなく、倫子なのか?
◎平安時代は一夫多妻だったのか?
平安時代の貴族は、正室以外に妾を持つケースがほとんどだ。紫式部の父・為時のような中級貴族でも(カタブツでも)何人も妻や妾を持つのが一般的だった。
日本史の授業でも、昔の日本の上流社会は一夫多妻だと習った記憶がある。
しかし、天皇や武家社会のように「お世継ぎ」をもうけねばならない場合以外は、基本的には一夫一妻だったのではないか、という説もあるという。
ただおそらく、複数の妻や妾を持つことに対して現代よりずっと寛容だったのではないか、というのである。
当時の貴族社会では、家の繁栄や政治力を保つために多くの妻や妾を持つことが奨励されていたとも考えられる。
また、「妻」と「妾」は明確に分かれていたが、「正室」という概念は希薄だったともいわれている。
しかし、藤原道長の場合は、正室・倫子ともう1人の妻・明子との差は明確だったようである。
◎倫子と明子、どっちが上?
道長は関係を持った女性は数多いと考えられているが、「妻」と呼ばれるのは倫子と明子だけである。では、倫子と明子、どちらが上(正室)なのか?
道長と2人の妻との関係は、以下のように伝わる。
・当時は婿入婚で、道長は倫子の家・土御門邸で暮らしていた
・道長はほとんどいつも倫子と一緒に過ごしていた
・明子のもとはたまにしか訪れなかった
(その割に明子は子を6人も産んでいるのがスゴイ)
ここから、倫子が正妻、明子は「第二の妻」だったと考えられているが、理由はほかにもある。
◎「北の方」と呼ばれるのは倫子だけ
倫子が正室だと考えられる理由の一つが子の扱いである。
・倫子の娘…4人全員入内(天皇に嫁ぐこと)している
・明子の娘…1人も入内していない
・倫子の息子…摂政や関白(一の人)まで出世
・明子の息子…右大臣・大納言(2~5番手)止まり
実際に道長がドラマのように「入内などせず、穏やかに暮らしてほしい」と言ったとは考えにくく、単純に彼は2人の妻の子を明確に区別していたということになる。
ドラマでも明子の家を訪ねた倫子が、公卿(高級貴族)の正室の呼び名「北の方」と呼ばれていた。やはり正室は倫子なのである。
では、正室はどうやって決まるのだろうか?
◆正室はどうやって決まるのか
◎身分だけでは決まらない?
正室が決まる要素は身分だけではない。倫子と明子を比べてみよう。
●身分…明子の方が上(しかし倫子も十分身分は高い)
倫子…宇多天皇のひ孫、明子…醍醐天皇の孫
●後ろ盾…倫子の方が上
倫子…左大臣家の姫君、明子…父はすでに薨去
●子どもの数…同じ6人だが、女子の多い倫子の方が上
倫子…女子4人・男子2人、明子…男子4人、女子2人
公卿の妻も天皇の后も、大切なのは身分以上に「後ろ盾」「財力」である。
ドラマでは描かれていないが、道長の存在感が増したのは政治手腕だけでない。
倫子の実家である左大臣家の政治力・財力などの後ろ盾によって、より強い政治的地位を確立できたのである。
倫子は「財力」がある上に「身分」も高い。さらに子を6人も産んでいる。しかも女子が4人。当時は天皇に入内させるために、公卿の妻は女子を産むことが求められたのだ。
明子も6人の子を産んでいるが、女子は2人。その点も負けている。仕方がない、倫子はパーフェクトすぎる妻なのだから。
しかし、もしも明子のほうがより多くの子を産んだら?明子だけが女子を産み、入内させていたら?…もしかしたら彼女たちの立場は逆転していたかもしれない。
このあたりで家系図をどうぞ。
◎子の数で負けた?暴露本『蜻蛉日記』を書いた道綱の母
道長らの父・兼家(演:段田安則)の正室は道長たちの母・時姫である。しかし結婚当初から彼女が正室だったわけではないらしい。
兼家との恋愛事情を『蜻蛉日記』に綴った才女・道綱の母(演:財前直見)も正室候補だったが、なぜ彼女は選ばれなかったのか。
●身分・後ろ盾…同レベル
2人とも受領階級(中級貴族)の娘(紫式部と同等)
●子どもの数…時姫の方が上
時姫…男子3人、女子2人(2人とも入内し天皇の母に)
道綱の母…男子1人
時姫は受領(中級貴族)の娘で、兼家には同様の身分の妻が複数人いた。兼家が時姫を正妻としたのは、子の数が決めてだと考えられている。
特に娘を2人(超子・詮子)産み、2人とも入内して国母(三条天皇・一条天皇の母)となったことが大きいだろう。
(しかし、もしかすると道綱の母が嫉妬深くてキツイ性格なのに嫌気がさしたのでは?…ともいわれている)
では、天皇の「結婚」はどうだったのか?
◆なぜ「一帝二后」は受け入れられたのか?
◎一般とは一線を画す天皇と后・妃との関係
ドラマでは、定子を気遣って彰子を立后できないという一条天皇(演:塩野瑛久)に、藤原行成(演:渡辺大知)は珍しく語気を荒立てた。
「天皇が一般人のように后を気遣ってはならぬ」という。
続けて行成のいった「現在の三后(※)は全員出家しているので神事ができない」とはどのような意味か。
三后とは、太皇太后・皇太后・中宮のこと。
《出家している当時の三后》
・円融天皇の中宮・藤原遵子(演:中村静香)
・一条天皇の母詮子(演:吉田羊)
・一条天皇の中宮定子
この年、太皇太后・昌子内親王が崩御したこともあり、后位には空きができた。
だから中宮定子を皇后にして、彰子を中宮にする必要がある。そこに天皇の愛情の問題など入り込む余地はない、というのである。
天皇とその后は世継ぎを産み、国の安寧を願うために神事を行うことが仕事。そのために天皇は多くの妃を持たねばならない。定子1人だけを愛するわけにはいかないのだ。
賢帝の条件の1つは「どの妃も分け隔てなく愛せること」だという。
天皇が「愛に生きる」ことは難しい。「許されない」と言ってもいいかもしれないだろう。
これこそ、紫式部が描いた『源氏物語』の「桐壺帝と光源氏の母」の悲恋物語につながったのかもしれない。
(イラスト・文 / 陽菜ひよ子)
◆主要参考文献
フェミニスト紫式部の生活と意見 ~現代用語で読み解く「源氏物語」~(奥山景布子)(集英社)
ワケあり式部とおつかれ道長(奥山景布子)(中央公論新社)
紫式部日記(山本淳子編)(角川文庫)
源氏物語(与謝野晶子訳)(角川文庫)