血に染まる鎧…大阪夏の陣で家族を守りながら奮闘した鬼神「小笠原忠政」紹介
小笠原忠政は、織田信長と徳川家康の両方から血筋を継承している戦国時代のサラブレッド武将です。
大阪夏の陣で重症を負った父に代わり、鬼神の如く怒涛の攻めで奮闘しました。
晩年は小倉城(北九州市)で余生を過ごした茶の湯の名人として知られています。
今回は、そんな戦国時代の隠れた名将・小笠原忠政についてみていきましょう。
※本記事の内容は様々な方に歴史の魅力を感じていただけるよう、史実を大筋にした「諸説あり・省略あり」でお届けしています。
・小笠原家
戦国時代の小笠原家は、甲斐国・武田家と互角に渡り合える名家でした。
武田信玄に敗れた際は上杉謙信を頼り、その後は徳川家康に支えることで御家を存続させています。
そんな実力を兼ね備えた小笠原家は深志城(現・松本城)を建築。織田家や徳川家との関係性を深め、戦国時代を生き抜いたのです。
・鬼神の奮闘!小笠原忠政が決死の覚悟で挑んだ戦い
1615年「大阪夏の陣」では、松本城の守備・警護を命じられていた小笠原忠政ですが、無断で戦場に参戦。徳川家康は彼の勇敢な姿勢を称賛し、従軍を許可しました。
小笠原軍が参戦したのは、天王寺・岡山の決戦です。
戦国末期の主人公ともいわれる「真田幸村」や「毛利勝永」を相手取りました。
徳川軍は徳川四天王・本多忠勝の次男・本多忠朝を先鋒に、小笠原軍は第二陣として本多軍をサポートしています。
そして同年5月7日正午、本多軍と毛利軍が正面激突。
陣形を崩してしまった本多軍は壊滅に追い込まれ、大将・本多忠朝が討ち死にしてしまいます。
小笠原軍は本多軍を庇って奮闘しましたが、乱戦に飲み込まれて小笠原忠政の兄・忠脩が死亡し、父・秀政(のちに死亡)は重症を負いました。
家族を守りながら奮闘した小笠原忠政も、鎧が血で染まるほどの重症を負って退却しています。
家族の訃報と味方の壊滅的な状況にも臆さず鬼神の如く奮闘をみせた小笠原忠政の勇姿に対して、徳川家康は「さすが私の鬼孫だ」と賞賛。
小笠原忠政が出陣した本戦いの結果は敗走ですが、徳川家康にとって曾孫にあたる彼の活躍と無事は嬉しいことだったのかも知れません。
福岡県北九州市の小倉城には、そんな小笠原家の繁栄や衰退を記録した展示が充実しているので、足を運んでみてください。