「人とすれ違うのも怖かった」南アW杯の“戦犯”と呼ばれた駒野友一が明かす10年前の真実
日本中を感動と興奮に包んだ2010年サッカー南アフリカワールドカップ(W杯)ベスト16進出の快進撃から10年。2018年ロシアW杯でも16強入りしているが、悲願のベスト8に最も近づいたのは、延長・PK戦まで粘った南ア大会のチームだと言っていい。「勝てば王者・スペインとの真剣勝負」という大きな夢に、彼らはあと一歩、手が届かなかった。
その責任を一身に背負い込んだのが、PK戦で唯一、失敗した駒野友一(FC今治)だ。号泣する背番号3の姿は多くの人々の脳裏に焼き付いているに違いない。10年という月日が経過した今、あのPKをどう捉え、その後のキャリアにどう生かしているのか。「戦犯」とバッシングを受けた当時のことについて、駒野が静かに語り出した。
「ブブゼラの音も聞こえた」蹴る前の心境
――スコアレスのまま延長が終わり、PK戦になった瞬間は?
「気持ちの揺れはなかったですね。監督の岡田(武史=現FC今治代表)さんが淡々とPKの順番を指名して、自分は3番目でした。(イビチャ・)オシムさんが監督だった2007年アジアカップの3位決定戦(・韓国戦=パレンバン)でも蹴って決めていましたし、自信はありました」
――1番手の遠藤保仁選手(G大阪)、2番手の長谷部誠選手(フランクフルト)が決めました。その時は本田圭佑(ボタフォゴ)と田中マルクス闘莉王両選手に挟まれていましたけど、蹴る前に2人から何か声をかけられましたか?
「覚えてないです。なかったと思います」
――ハーフウェーラインからゴール前まで歩み出て、実際に蹴るまでのシーンは?
「はっきり覚えています。ブブゼラの音も聞こえてましたよ。緊張は全然してなかったですね」
――記者席では「コマちゃん、大丈夫か」という心配の声も挙がりましたけど(苦笑)。
「ハハハハ…(笑)。ぼくは普通でした」
――どんなボールを蹴ろうと?
「蹴る前にGK(フスト・ビジャール)の動きが一瞬視野に入ってきたんで、『GKの手が届かないところに蹴ろうかな』と。そう思って上を狙いました。ただ、それまでのPKで上を狙ったことはなかったかもしれない。際どいところを狙ったというのは確かにありました」
乾いた音が響いた。駒野の蹴ったボールはクロスバーの左上を直撃。そのまま外へ出た。次の瞬間、彼は大きくのけぞり、頭を抱え、髪をかきむしった。パラグアイの選手たちが歓喜の雄叫びを上げる傍らで、岡田監督は表情ひとつ変えずにピッチ上を凝視。中村憲剛(川崎)や玉田圭司(長崎)が「信じられない」といった表情を浮かべる。本田や長友佑都(ガラタサライ)がゴール前を睨みつける中、駒野は無言で仲間のところに戻った。
――大会直前にキャプテンマークを長谷部選手に譲った中澤佑二選手(現解説者)が迎えてくれました。
「そうやってわざわざ来てくれたのは、すごくうれしかったですね」
――戻ったあとは遠藤、玉田両選手に挟まれていましたが、言葉はかけられた?
「いや、ないです」
――どんな思いで後の場面を見ていました?
「自分が外しているので、『永嗣(川島=ストラスブール)、止めてくれ』と」
――パラグアイの4番手、ネルソン・バルデスが決め、本田選手も成功したものの、最後のオスカル・カルドソは左足でタイミングを外して軽くシュートを蹴り込みました。日本の敗退が決まった瞬間は?
「自分1人だけ外して負けてしまった。責任はすごく大きかった。試合が終わった瞬間から自然と涙が出てきました。ボロボロ泣けてくるなんて、人生であの時だけですね」
涙にむせぶ駒野をチームメートが次々と励ました。最年長の川口能活(現日本サッカー協会アスリート委員長)を筆頭に、中澤、中村俊輔(横浜FC)と先輩たちが次々と近寄ってくる。岡田監督に肩を抱かれ、しつこいマークで苦しめたネルソン・バルデスからも「マイフレンド」と激励の言葉を贈られた。そんな中、やはり駒野が一番うれしかったのは、同級生の松井大輔(横浜FC)と阿部勇樹(浦和)が駆け寄ってくれたことだった。
「帰国後は人とすれ違うのが怖かった」
――みんなに励まされました。
「松井とアベちゃんが近くにいましたね。あの時点では周りの声も聞こえなかったというか、耳に入ってこなかった。隣に誰がいたかも分かんなかったけど、『大丈夫だよ』『自信を持って帰ろう』と言ってくれた気がします。でもその時はそんな気持ちにはなれなかったですね……」
――試合後のミックスゾーンも素通りでしたね。
「ロッカールームに入って、外に出る時には涙は止まってたんですけど、そこで田嶋さん(幸三=現協会会長)から言葉をかけられて、また泣いてしまって……。その後、ミックスゾーンを通ったんですけど、記者の人に話せる感じじゃなくて、通り過ぎたんです」
――ホテルに戻ってから自宅に電話しましたか?
「はい。奥さんから『胸を張って帰ってきて』と言われました」
――南アフリカから帰国後は?
「奥さんと娘と一緒に沖縄旅行に行ったんですけど、『自分のせいで負けた』という気持ちが残っていましたね。旅行先でも人の視線がつねに気になりました。南アから戻って声をかけられることも多くなりましたけど、最初はすれ違うだけでも正直、怖かったです」
――あれからPKに対する苦手意識は生まれました?
「あの失敗があったから蹴りたくないっていうのはないです。その後、Jリーグで天皇杯やスルガ銀行カップでも普通に蹴りましたから。『蹴りたくない』と自分から言うこともなかったです」
――PKを蹴る時にあの失敗が脳裏をよぎることは?
「ないですね。その時、見に来てくれたサポーターがざわざわしたので、そっちの方が気になりました」
――パラグアイ戦を改めて見返したことは?
「1回も見てないです。でも最近、当時生まれてなかった小学校3年生の息子が初めて映像を見たらしいんです。『パパ、PK外したんだね』って言われました。ずっと記憶されますね(苦笑)」
パラグアイ戦はテレビ視聴率57.3%という驚異的な注目度を誇った。「駒野=PK失敗」と認識する国民も少なくない。それを象徴するかのように、彼はこの10年でPK戦に関する取材を50~100件も受けたという。常人には想像できないほどの大きな挫折を経て、駒野はサッカー選手としても、1人の人間としても確実に成長した。
あのPKから10年経っても持ち続ける思い
――あのPKは自分自身にどのような意味をもたらしましたか?
「あの場面で外していろんなことがありましたけど、それでサッカーが怖くなったとか、嫌になったとかは全然なかった。Jリーグに戻ったら、成長した自分を見せたいと思ったんです。というのも、ジュビロに200~300通のメッセージが来ていたんですよ。2割は『なんで外したんだ』というきつい言葉でしたけど、8割が『よくやった』『感動した』という激励だった。こんなに沢山の人に応援してもらえてるんだと感じた。だからこそ、もう一度、自分が元気にやってる姿をグラウンドで見せたいと思った。その気持ちは10年経っても持ち続けてますね」
――94年アメリカW杯決勝でPKを外した元イタリア代表FWのロベルト・バッジョが「PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気を持つ者だけだ」という言葉を残していますが、どう感じますか。
「PKは選ばれた選手だけが蹴るもの。あそこで監督に指名されて、自信がなかったわけじゃない。そう考えると勇気はありましたね」
――最後に駒野選手にとってパラグアイ戦のPKとは?
「より自分を成長させてくれた出来事。1つの重要なシーンです」
一度は地獄に突き落とされたが、不死鳥のように力強く這い上がった駒野友一。今季からJ3に昇格したFC今治で、あの日と同じ背番号3を今も背負い続けている。
5月22日にオンラインでインタビュー実施。
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