ガラパゴス化する日本の食品安全行政
マーガリンなどに含まれ心臓疾患の原因となるトランス脂肪酸の使用を、米政府が全面禁止するとのニュースが、日本でも大きく報じられた。トランス脂肪酸は欧州やアジアの国々でも使用規制や表示義務化が進み、国内でも何らかの規制を望む声が上がっている。しかし、政府は今のところ規制には消極的だ。実は、食品の安全に関する日本政府のこうした「わが道を行く」姿勢は、トランス脂肪酸に限ったことではない。農薬など他の問題でも、世界の流れに逆行する動きが目立つ。日本の食品安全行政のガラパゴス化が、顕著になっているのだ。
ネオニコチノイド問題
ガラパゴス化の代表例が、ネオニコチノイド系農薬(ネオニコチノイド)の規制問題だ。それを理解するために、まず、ネオニコチノイドとは何かを説明しよう。
ネオニコチノイドは、1990年代ごろから、それまでの有機リン系に代わって急速に普及し始めた殺虫剤で、今や世界で最も人気の農薬だ。
用途は非常に幅広い。コメや野菜、果物などの農産物や、樹木に被害を与える害虫の駆除だけでなく、家庭でも日常的に使われている。例えば、ガーデニング用の殺虫剤や台所のコバエ取り、ゴキブリ駆除、さらには犬や猫などペットのノミ取りなどにも使われる。実はとても身近な存在だ。
しかし今、その恐ろしい副作用が世界的に大きな問題となりつつある。
ネオニコチノイドは、簡単に言えば、タバコの有害成分であるニコチンに似た化学構造を持つ神経毒。名前がニコチンに似ているのは、そのためだ。人の体内に入ると、神経伝達物質であるアセチルコリンの働きをかく乱、妨害し、その結果、脈の異常や発熱、頭痛、短期の記憶障害などさまざまな症状を引き起こす。実際に、日本でも、松枯れ病対策のためにネオニコチノイドが散布された地域で、住民の多くが直後に、頭痛や吐き気、めまいなどの症状を訴えるという事件が起きている。
子どもや胎児への影響も
だが、より深刻な懸念は、小さな子どもや母親のおなかの中にいる胎児への長期的な影響だ。
専門家が指摘するのは、発達障害との関連。日本でも発達障害と診断される子どもが増えているが、その原因の1つとして、ネオニコチノイドが疑われている。
ネオニコチノイドの人体への長期的な影響に関する研究はまだそれほど多くない。しかし、ネオニコチノイドと似た化学構造を持つニコチンが、子どもや胎児に深刻な影響を与えることは、すでに多くの研究で証明済みだ。例えば、妊婦の喫煙は、低体重児や注意欠陥・多動性障害(ADHD)児が生まれるリスクを高めることがわかっている。だからこそ、未成年者の喫煙は法律で禁じられているし、妊婦の喫煙は強く戒められているわけだ。ネオニコチノイドも、同様の影響を人体に与え得ると見る専門家は多い。
実際、欧州連合(EU)の専門機関である欧州食品安全機関(EFSA)は、2013年12月、ネオニコチノイドの一種であるアセタミプリドとイミダクロプリドに関し、「低濃度でも人間の脳や神経の発達に悪影響を及ぼす恐れがある」との研究結果を発表している。いずれも、日本で広く使われている農薬だ。
こうして、その危険性が徐々に明らかになりつつあるネオニコチノイドだが、その本当の怖さは、高い残留性にある。
一般に、農薬というと、葉や茎や実の表面に直接、散布するイメージがある。だから、食べる前に水でよく洗えば、かなり落ちるだろうと考える。しかし、ネオニコチノイドは違う。
洗っても落ちない
ネオニコチノイドの特徴は、水に溶けやすい。つまり水溶性だ。葉や茎や実の表面に噴霧されたネオニコチノイドは、水と反応して農産物の内部に浸透する。土壌にまかれた場合も、根や吸収され、植物の内部を移動しながらいろいろな場所に残留する。さらには、発芽前の種子をネオニコチノイド溶液に浸す、いわゆる種子処理という方法もある。種子処理された種子から発芽した農産物は、生まれながらにして体内に強力な殺虫力を備えているというわけだ。
したがって、害虫はネオニコチノイドを直接浴びても死ぬが、ネオニコチノイド入りの葉や茎や実を食べても、死ぬ。だからこそネオニコチノイドは、一度使えば効果が確実に長持ちする優れた農薬として、重宝されるのだ。
しかし、これが人間には災いする。農産物の内部に残留しているので、食べる前にいくら洗っても、成分を除去できない。
タバコなら、ニコチンの害を防ぐには、吸わなければいいだけの話。受動喫煙も、注意すれば避けられる。だが、ネオニコチノイドはそうはいかない。毎日食べているコメや野菜、果物を通じ、知らないうちに体内に取り込まれている可能性が高いのである。
危険なネオニコチノイドを摂取しない唯一の方法は、ネオニコチノイドを使った農産物を一切口にしないことだ。しかし、ネオニコチノイドを使っているかどうかなど、消費者にはまずわからない。どうしても避けたければ、値段は多少高くても、有機農産物や農薬不使用の農産物を選ぶしかない。
ネオニコチノイドは、自然環境への影響も強く懸念されている。
ネオニコチノイドが普及し始めたのとほぼ同時期の1990年代から、ミツバチの大量死や数の減少が世界中で報告されるようになっている。
この現象は、蜂群崩壊症候群(CCD)と名付けられ、欧州各地で最初に報告された後、北南米やアジアなど世界中に広がった。日本でも2005年ごろから、全国各地でCCDと思われる事例が相次いで報告されており、養蜂農家が大きな損害を被っている。
CCDの原因はまだ突き止められていないが、ネオニコチノイド犯人説が有力だ。ネオニコチノイドを含んだ花の蜜を吸った働き蜂が、ネオニコチノイドの神経毒にやられ、帰巣できなくなったと考えられている。
国連環境計画(UNEP)によれば、世界の主要な100種類の作物のうち、70種類以上の受粉にミツバチがかかわっている。つまり、ミツバチが地上から消えれば、世界の食料生産が大打撃を被る可能性があるのだ。UNEPはCCDの考えられる原因の1つとして、ネオニコチノイドの大量使用を示唆している。
世界は規制強化の流れ
ネオニコチノイドの有害性の深刻度合いが徐々に明らかになるにつれ、ネオニコチノイドの使用を禁止したり制限したりする動きが、世界的に進み始めている。
例えば、消費者保護に敏感なEUは、2013年12月、主要ネオニコチノイドのうち、クロチアニジン、イミダクロプリド、チアメトキサムの3種類について、安全性が確認されるまで使用を暫定的に禁止すると発表した。EU加盟国の中には、すでにそれ以前から、個別に規制強化に乗り出しているところも多い。
業界団体の政治力が強く消費者保護が後回しになりがちな米国でも、規制強化が始まった。環境保護庁(EPA)は4月2日、イミダクロプリド、クロチアニジン、チアメトキサム、ジノテフランの4種類のネオニコチノイドについて、「新たな使用」を当面、認めない方針を明らかにした。「新たな使用」とは、使用申請済み以外の農作物への使用や、現在行っている以外の使用法(例えば空中散布など)、また、試験的使用などが含まれる。
欧米だけではない。韓国も規制強化に乗り出した。農村振興庁は昨年2月、EUが暫定使用禁止措置を取った3種類のネオニコチノイドについて、EUが最終評価を出すまでは使用に関する新規登録や変更登録を制限すると発表した。
日本は使用基準を緩和
これに対し日本では今年5月、厚生労働省が、ネオニコチノイドの残留基準を緩和する旨を各都道府県知事や保健所設置市長などに通知した。つまり、ネオニコチノイドはもっと使っても構わないと、お上がお墨付きを与えたのである。
今回、基準が緩和されたのは、主要ネオニコチノイドのうち、クロチアニジン、アセタミプリドの2種類。国立環境研究所の最新データによると、2013年度の国内出荷量は、それぞれ70トンと52トン。ネオニコチノイドの中では使用量が比較的多い種類だ。特にクロチアニジンは、出荷量が10年ほど前と比べて7倍増と激増している。
この結果、クロチアニジンの食品残留基準は、例えばホウレンソウの場合、従来の13倍強の40ppmとなった(1ppmは0.0001%)。ほかにも、カブの葉が2000倍の40ppm、シュンギクが50倍の10ppm、コマツナが10倍の10ppm、ミツバが1000倍の20ppm、パセリが7.5倍の15ppmなど、定番の野菜の残留基準値が大幅に緩和されている。
野菜類だけではない。玄米が1.4倍の1ppm、ウメが1.7倍の5ppm、牛や豚などの肝臓が10倍の0.2ppmなど、緩和の対象も広範囲に及んでいる。
アセタミプリドに関しては、シュンギクとレタスがいずれも2倍の10ppm、オウトウ(チェリーを含む)が2.5倍の5ppmに緩和されるなどしている。
今回は変更の対象外だが、主要ネオニコチノイドのイミダクロプリドも、2011年にホウレンソウの残留基準が2.5ppmから6倍の15ppmに引き上げられている。ネオニコチノイドの残留基準は年々、緩和される傾向にあるのだ。
それでなくても、もともと日本の残留基準は欧米に比べて甘い。例えば、アセタミプリドのイチゴに対する残留基準値は、日本の3ppmに対し、米国は5分の1の0.6ppm。EUにいたっては、それ以上は計測不可能を意味する検出限界値の0.01ppmだ。
もともと甘い基準をさらに甘くするのだから、日本と世界との差は開く一方である。
国際環境団体のグリンピース・ジャパンは「この農薬が人や環境へ及ぼしうる悪影響に関する科学的証拠や、世界で次々とネオニコチノイド規制を導入する国が増えている流れに逆行している」と、今回の政府の基準見直しを厳しく批判している。
ガラパゴス化招く「企業寄り」の姿勢
食品の安全問題で日本だけが「わが道を行く」背景には、「農薬メーカーの利益を優先していると言わざるを得ない」(グリーンピース)との指摘があるように、国民の健康よりも企業利活動の自由を重視する政府の姿勢があるのは、疑いの余地がない。
事実、今回の残留基準緩和も、化学メーカーからの適用拡大の申請を受け、検討された結果だ。しかも、基準見直しの過程で政府が募集したパブリックコメントは、集まった約2千件の意見のうち、大半が基準緩和に反対の内容だったという。にもかかわらず基準は緩和されたのである。結果的に、少しでも安全なコメや野菜を食べたいという消費者の意向は完全に無視され、もっとたくさん農薬を売って利益を伸ばしたいという企業の意向だけが考慮された格好だ。
食品安全行政における日本政府のガラパゴス化は、初めに指摘したように、トランス脂肪酸の問題にも当てはまる。
トランス脂肪酸に関しては、米政府が全面禁止を発表した約2か月前の4月14日に、多くの消費者団体が参加する「食品表示を考える市民ネットワーク」が、トランス脂肪酸の表示を義務化すべきだとの要望書を、山口俊一・内閣府特命担当大臣らに提出している。同ネットワークは、それ以前にも、トランス脂肪酸の表示義務化を何度も政府に働きかけていた。しかし、消費者側の声は今のところ完全に無視されている。ここでも「行政は企業寄り」(消費者団体幹部)と映る。
他にも、薬の効かない耐性菌の繁殖につながる家畜への抗生物質投与の問題、穴だらけの遺伝子組み換え表示ルールなど、食品安全行政における日本政府のガラパゴス化を示唆する例は数多い。いずれの場合も、国民の健康よりも経済や企業活動の自由を優先する行政の姿勢が根っこにあることは、食品安全にかかわる多くの専門家が指摘するところだ。
食品安全問題で、政府がこのままガラパゴス化の道を突き進むなら、そのツケは将来、国民に回ってくることになる。