ラスト開催!鈴鹿1000kmを走った懐かしの名車たち。夏の耐久は「鈴鹿10時間耐久」へ!
今年で最後の開催となる伝統の自動車レース「鈴鹿1000km」。近年SUPER GTの1戦として開催されてきたが、来年からは鈴鹿サーキットが独自に開催する新イベント「鈴鹿10時間耐久レース」へと生まれ変わる。今年の「鈴鹿1000kmレース THE FINAL」(8月26日-27日開催)でラストということでその歴史について紹介しよう。
初代ウイナーはトヨタ2000GT
「鈴鹿1000km」は今年で46回目の開催を迎えるが、これはレースイベントの開催回数であり、時代の流れによって1000km未満のレースが開催されたこともあった。2006年からSUPER GTのシリーズ戦となり、リーマンショック期の2009年〜2011年はコスト削減のために700kmレースとして開催。さらに東日本大震災で電力、エネルギー不足に見舞われた2011年は500kmレースに短縮して開催されている。数え方という意味では若干曖昧な部分もあるが、そのルーツはオートバイ耐久レースの「鈴鹿8耐」よりも古い。
第1回「鈴鹿1000km」が開催されたのは1966年(昭和41年)のこと。当時国内で最大の自動車レース「日本グランプリ」の開催権を失っていた鈴鹿サーキットだったが、自動車メーカーがモータースポーツに力を入れ、スポーツカーがメーカーを代表するフラッグシップマシンとして続々と登場していた時期で、この時代から様々な耐久レースを開催していた。車の信頼性がまだ低かった時代であり、「1000km」をレーシングスピードで走破することはスプリントレースに勝つこと以上に大きな困難を伴った時代である。
そんな第1回大会で優勝を飾ったのは名車「トヨタ2000GT」だ。ライバルの「日産・フェアレディ」に2周の差をつけて、トヨタは1-2フィニッシュを果たしている。当時の優勝者チームが1000kmを完走した時間は8時間2分13秒。2016年のSUPER GTでの優勝チーム「ZENT CERUMO RC F」(レクサスRCF GT500)のフィニッシュタイムが5時間45分34秒だったことを考えると、50年の歴史の中でいかにレースを戦うクルマのスピードが進化してきたかが分かるだろう。
ちなみに完走した台数は1966年が49台中24台(完走率49%)だったのに対し、2016年はGT500とGT300合わせて44台中36台(完走率82%)と50年で完走を果たすマシンが大幅に多くなっていることが分かる。
オイルショック休止期を経て、世界との戦いへ
1966年にスタートした「鈴鹿1000km」は1973年(昭和48年)まで連続開催されるが、70年代に日本をパニックに陥れた「石油危機(オイルショック)」の影響、自動車メーカーのモータースポーツ撤退により、74年からしばらく休止される。
1980年(昭和55年)に夏の耐久レースとして復活した「鈴鹿1000km」は市販車ベースのスポーツカーに加え、富士・グランチャンシリーズを戦っていたレーシングスポーツカーが参戦して開催された。ここまでは国内ローカルの耐久レースだったが、1981年から国際格式のレースへと変化し、「インターナショナル鈴鹿1000kmレース」という名前が使われるようになる。
最初の国際格式レースで優勝したのはボブ・ウォレック、アンリ・ペスカローロ組のポルシェ935K。フランスの「ル・マン24時間レース」のスター選手である2人が優勝したということで、2輪の「鈴鹿8耐」同様に世界とのつながりを模索し、「鈴鹿1000km」を国際的なレースとして成長させようとしていたことが見て取れる。
当時、世界のスポーツカーレースのトレンドはマシン製作の自由度が高く、レースで使用できる燃料が規定されていた国際自動車連盟(FIA)の「グループC」規定になりつつあった。1983年には日本のトラストレーシングチームが市販された「ポルシェ956」を投入し、独走で優勝。本格的なグループCカーの時代が幕を開けた。ただ、この時代はまだ国内メーカーも「グループC」規定のマシンを模索しながら作っていた時代であり、台数は少なく、出場車の多くは市販車をベースにしたGTカーであった。
1000馬力を超えるモンスターマシン「グループCカー」で国内メーカーのマシンが巨豪ポルシェを相手に戦えるようになるのは1980年代後半のこと。この時代にはGTカーは完全に姿を消し、「全日本スポーツプロトタイプカー選手権」というシリーズの1戦としてグループCカーの戦いとなっていく。ただ、グループCカーだけでは台数が限られるので、鈴鹿独自のレーシングスポーツカー「SJ」が混走した年もある。のちに「RS」と呼ばれるカテゴリーの単座席オープンレーシングスポーツカーであり、実は今も鈴鹿のローカルレース「鈴鹿クラブマンレース」でこのタイプのマシンのレースが設定されている。
世界戦から紆余曲折を経てSUPER GTへ
「グループCカー」による「鈴鹿1000km」は迫力満点だったが、「グループCカー」規定は徐々に衰退していった。市販レーシングカーとして売り出された「ポルシェ956」「ポルシェ962C」を国内メーカーのグループCカーが凌駕しはじめたからだ。世界的にも「グループCカー」の規定は変革を遂げ、1991年からは当時のF1と同じ3.5L自然吸気エンジンを搭載した「グループCカー」によるSWC(スポーツカー世界選手権)へ。「鈴鹿1000km」は1992年、ついにその世界選手権の1戦に組み込まれた。
この時、日本のモータースポーツファンを熱くさせたのが「トヨタTS010」。F1ブームに沸いていた時代だが、トヨタはF1と同じ3.5Lエンジンを開発し、ル・マン24時間レース制覇を目指した。ライバルはフランスの「プジョー905」。1992年のル・マンで惨敗し、鈴鹿でのリベンジを狙ったが、トヨタは勝てず。日本で勝利する姿を見せることができないまま、この年をもってSWC自体が消滅した。
バブル崩壊の影響、「グループC」の衰退によって、時代は再びGTカーの時代へと動いていく。「グループC」という基軸を失った「鈴鹿1000km」はここから独自の耐久レースとなっていった。ヨーロッパやアメリカからありとあらゆるGTカーを集め、とにかく「ごった煮」状態のレースとなる。やがてGTカーの流れに乗って「BPRシリーズ」の1戦となり、世界中のGTカーが鈴鹿にやってきた。そして、1997年には「FIA GT選手権」の1戦となり、独自の努力で国際色を強めていったのが1990年代である。
しかしながら、「FIA GT選手権」もメーカー間競争の激しさから消滅することになり、1999年から再び独自のレースに。その主役となったのが、当時はまだ今のような人気を得ていたとは言えなかった「全日本GT選手権(現在のSUPER GT)」のGT500マシンだった。ホンダ・NSX、トヨタ・スープラが優勝を争い、GT300、スーパー耐久、そして鈴鹿独自のRSが混走する姿は今や懐かしい光景である。
2006年から人気が高まっていた「SUPER GT」の1戦となり、安定したファンの来場が見込める夏のビッグレースになっていた「鈴鹿1000km」だが、SUPER GTでの開催は今年で最後。来年からは鈴鹿サーキットは独自のハンドリングで世界中のスーパーカーが集う「FIA GT3」規定の新イベント「鈴鹿10時間耐久レース」を開催する。
時代の流れと共にテイストを変えながらも開催され続けた「鈴鹿」の「夏」の「耐久レース」。1000kmレースというフォーマットは歴史を振り返れば、常に「スポーツカー」「世界とのつながり」そして「鈴鹿のオリジナリティ」が存在した。新たに始まる「鈴鹿10時間耐久レース」もそんなイベントとなるのだろうか?レースウィークに記者会見やイベントを通じ、様々な詳細が発表されることになるだろう。