どうして日銀はマイナス金利解除を拒んでいたのか
日銀は結果からみてセントラルバンクとしては異端ともいえる政策を黒田総裁時代の10年間続けてきた。そこからの方向転換の困難さは、総裁人事そのものからもうかがい知れた。
黒田総裁の後任は日銀プロパーではなく、学者出身という日本銀行にとっては異例ともいえる人事となった。たしかにFRBなどではトップが学者出身という事例はあった。しかし、日銀の次期総裁は当然、日銀プロパーであろうとの予測が何故か覆されたのであった。
それだけ政策修正は困難であろうことが予想された。植田総裁も2000年のゼロ金利政策の解除に反対票を投じるなどした経緯もあった。さらに副総裁には、黒田時代の非常時緩和策を支えていた内田氏が就任したこともあり、簡単には方向転換はしないとの見方が強かった。
しかし、その状況が急変することとなる。非常時緩和などなくても物価が上昇することが示されたのである。新型コロナウイルスの世界的な感染拡大やロシアによるウクライナ侵攻などをきっかけに、世界の物価が上昇し、日本も当然ながら巻き込まれた。
これに対して欧米の中央銀行は、まさにインフレファイターとして立ち向かうこととなった。しかし方向転換ができない日銀に対し、市場は挑戦することになる。
その結果が円安であり、その円安がさらに国内の物価を上昇させた。また、欧米の長期金利の上昇などから、日本の長期金利にも上昇圧力が掛かる。日銀はそれを力尽くで抑えつけようとしたことで、市場との対立姿勢を強めた。
結局、日銀はイールドカーブ・コントロールを形式的なものとせざるを得なくなった。そして今度は非常時緩和からの修正が当然ながら促されることとなる。
日銀のなかで、どのようなせめぎ合いがあったのかは想像するしかないものの、植田総裁や氷見野副総裁は、マイナス金利解除に前向きであったと思われる。それが植田総裁のチャレンジング発言や氷見野副総裁の講演内容からもうかがえた。
これに対して内田副総裁や事務方執行部は、金融政策の修正に対して慎重であったと思われる。その要因としては2000年と2006年のゼロ金利政策解除時の政治との対立姿勢を強めたことによるトラウマがあったとされる。
また異次元緩和の修正はアベノミクスを推進している人達にはやってほしくはないものとなっている。政治的な圧力が政策修正を拒む大きな要因として働いていたであろうことも容易に想像が付く。しかし、そのプレッシャーも政治的な理由でやや後退し、修正派のフリーハンドが拡がってきたことも確かではなかろうか。
ということで、まだマイナス金利が解除されたわけでも、3月の決定会合で間違いなく解除されるというわけではないものの、市場ではやっとその可能性を意識しはじめてきた。その結果がここにきての国債利回りの上昇に繋がっているのである。