後世に多くの影響を与えた ドナー隊の悲劇
19世紀、アメリカでは新たなる土地を求めて多くの開拓民が西部へ入植していきました。
しかし中には目的地に辿り着くことができず、命を落とすことになった開拓民も決して少なくなかったのです。
この記事ではカリフォルニアを目指して西部へと進んでいったドナー隊の軌跡について取り上げていきます。
結局カニバリズムはあったのか?
ドナー隊の生存者たちの間で、人肉食の有無については様々な証言が存在します。
多くの生存者はその事実を否定しましたが、チャールズ・マクグラシャンは40年間にわたる文通を通じて、多くの証言を記録し、それが実際に行われたとする回想も数多く残しているのです。
中には関与を恥じて口を閉ざしていた者もいましたが、最終的には真実を語るようになった人もいました。
マクグラシャンは1879年に出版した『History of the Donner Party』において、ドナー隊の陰惨な部分を敢えて省いています。
例えば、子どもたちの苦しみや、マーフィー夫人が子どもたちを第3次救助隊に連れていかれた際の絶望などです。
また、アルダー河畔での人肉食については全く触れていませんでした。
しかし、ジョージア・ドナーは彼に宛てた手紙で、人肉が調理されたことを認め、幼い子どもたちにそれが与えられたことを記憶していると述べています。
考古学的な調査によって、アルダー河畔での人肉食を証明する決定的な証拠は発見されていません。
しかし、エリザ・ファーナムが1856年にまとめた記録では、マーガレット・ブリーンへの取材に基づき、ドナー隊が死者を食べた事実を詳細に記述しています。
特に、当時7歳だったメアリ・ドナーが、アルダー河畔で既に死者を食べていたことを理由に、さらに他の3人を食べることを提案したことが書かれているのです。
一方、ジャン・バチスト・トルドーは、当初は自らが人肉を食べたことを誇らしげに語っていましたが、後年になるとその事実を否定し、特にエリザ・ドナー・ホートンに対しては、そのようなことはしていないと主張しました。
作家のジョージ・スチュワートは、トルドーがワイズに語った内容を信じる一方で、クリスティン・ジョンソンは、トルドーの若さゆえの誇張であり、年を重ねるうちにホートンに配慮するようになったと分析しています。
ドナー隊の参加者たちは、厳しい選択を余儀なくされ、その中で生き延びるために過酷な決断を迫られていました。
イーサン・ラリックが指摘するように、ドナー隊の物語は「英雄的でも悪人的でもない過酷な選択の連続」であり、その全貌を理解するには、当時の状況に対する深い洞察が必要です。
ドナー隊が後世に与えた影響
ドナー隊の事件は、オレゴンやカリフォルニアへの膨大な移民に比べれば小さな出来事に過ぎないものの、その衝撃的な内容から多くの歴史書や創作、映画の題材となってきました。
特に「人肉食」という禁忌が、世間に強い印象を与えています。
ジョンソンはこの事件が、普通の家族に起きた悲劇であり、繁栄を求めた人々がその夢の直前で飢餓と死に直面した皮肉が注目される理由だと述べているのです。
ドナー隊の悲劇の舞台となった場所は、1854年には既に観光名所となり、1918年には事件を記念する立像が設置されました。
1927年、カリフォルニア州はドナー記念公園を設立し、その後も公園は拡大していきます。
1962年には移民街道博物館が加わり、翌年にはドナー隊記念碑とマーフィー家の小屋がアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定されました。
現在、ドナー記念公園には年間約20万人の観光客が訪れています。