熊谷6人殺害事件で上告断念 死刑回避の理由になった精神鑑定はなぜ重要?
熊谷で女児ら6人を殺害した男に対し、東京高裁は一審の死刑を破棄して無期懲役とした。検察側が上告を断念したものの、弁護側が上告したため、舞台は最高裁に移される。ただ、この判決に対する誤解も散見される。
なぜ無期懲役を選択?
例えば、ワイドショーのコメンテーターを務める弁護士の一人は、「事実認定が何も変わることなく、ただ責任能力の程度が相当低かったという評価だけ」「それで一審の判決を覆して無期にするってことが許されていいのか」と指摘している。
確かに高裁は、男がやった行為について一審と同様に認定しており、本来は死刑で臨むほかないとまで言っている。では、なぜ無期懲役にしたかというと、事件当時、男が統合失調症に罹患しており、その影響で限定的な責任能力しかなかったと認定したからだ。この部分について、一審と事実認定が大きく変わっているわけだ。
すなわち、刑法は次のように規定している。
「心神喪失者の行為は、罰しない」
「心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」
心神喪失は精神の障害によって善悪の判断能力やその判断にしたがって行動する能力が失われている状態を、心神耗弱はそうした能力が著しく減退している状態をいう。
こうした規定に違和感を覚える人も多いだろう。いい歳をした大人が生死に関わる重大な結果を引き起こしているわけだし、被害者やその家族らからすると相手が誰であろうと関係ないからだ。素朴な正義感のあらわれとして理解できる。
しかし、長い歴史を経て形づくられた近代刑法は、そうした結果責任論から脱却し、「責任主義」という考え方を基本原則としている。たとえ刑罰法規に触れる行為があっても、犯人の内面などに非難できない事情があれば、法的な責任を問えないというものだ。
こうした責任能力の問題ばかりか、訴訟能力や受刑能力の問題もある。法廷の内外で支離滅裂な話をしていて意思疎通ができず、防御のための権利すら理解できない者に裁判を行うのは妥当でないし、自分がどのような刑罰を受けるのか、また、なぜそうした刑罰を受けなければならないのか認識できない者に刑の執行をしても刑罰の意味がないというわけだ。
原因において自由な行為
そうすると、あえて犯行の前に覚せい剤などを使用したり、大量に飲酒し、自らを精神錯乱の状態にしたうえで犯行に及べば、無罪放免が狙えると思う人もいるのではないか。しかし、刑事裁判の実務はそこまで甘くなく、それでも完全な責任能力があったとして処罰される。
もともと善悪の判断能力やこれにしたがって行動する能力があったわけで、にもかかわらず自らの自由な意思で犯行を決意し、覚せい剤などの影響下で実行に移すことにし、現に犯行の原因となる覚せい剤などの使用に及んでいるからだ。
ドイツの刑法理論を参考にしたもので、「原因において自由な行為」と呼ばれる考え方だ。たとえ酒酔い運転のときに酩酊していたとしても、飲酒の時点で酒酔い運転をする意思があった以上は処罰されるというのがその典型だ。
民事上の損害賠償責任に関するものではあるが、民法も「精神上の障害により自己の行為の責任を弁識する能力を欠く状態にある間に他人に損害を加えた者は、その賠償の責任を負わない」と規定したうえで、「ただし、故意又は過失によって一時的にその状態を招いたときは、この限りでない」としている。
精神鑑定の重要性
このように、犯人の精神状態によって法律の適用が大きく変わってくることから、これを判断するうえで重要となるのが、精神科医ら専門家による精神鑑定だ。
この点につき、最高裁は、「法律判断であり、もっぱら裁判所に委ねられる。その前提となる生物学的、心理学的要素についても、究極的には裁判所の評価に委ねられる」と述べている。
ただ、一方で「専門家たる精神科医の意見が鑑定等として証拠となっている場合には、鑑定人の公正さや能力に疑いが生じたり、鑑定の前提条件に問題があったりするなど、これを採用し得ない合理的な事情が認められるのでない限り、その意見を十分に尊重して認定すべき」とも述べているところだ。
もはや精神科医らによる精神鑑定は、犯罪捜査や刑事裁判において避けて通れないものとなっている。
刑法犯で検挙された者のうち精神障害やその疑いがある者が占める比率はわずか1.4~1.8%ほどであるが、殺人だと12~13%、放火になると17~20%と比較的高いことから、これらの事件では特に注意して観察する。
法律を変えるほかない
男についても、起訴前と起訴後に精神鑑定が行われたものの、事件当時、統合失調症に罹患しており、責任能力が問題視された。
弁護側は、男が心神喪失の状態だったから、無罪だと主張していた。それでも一審は、心神喪失でも心神耗弱でもなかったとして、死刑を選択した。高裁はこれと異なり、妄想に基づく犯行で心神耗弱だったと認定した。先ほどの刑法の規定がある以上、たとえ死刑が相当だと考えたとしても、必ず減軽しなければならない。
その際、刑法の次の規定に従わなければならない。
「死刑を減軽するときは、無期の懲役若しくは禁錮又は10年以上の懲役若しくは禁錮とする」
この結果、高裁はその最も重い刑である無期懲役を選択したというわけだ。
もし刑法に心神喪失や心神耗弱の規定がなかったり、心神耗弱でも「刑を減軽する」ではなく「することができる」と裁判所の裁量を認める条文であれば、控訴審の結論も変わったことだろう。
しかし、法令の改廃は立法を担う国会の専権事項であり、三権分立の原則から司法機関が手出しすることは許されない。あくまで司法は、目の前にある法律に従って粛々と裁判を行わなければならない。
死刑の可能性が消える
心神耗弱を認定して無期懲役とした控訴審判決に対して検察側が上告せず、他方で弁護側のみが上告しているため、刑事裁判のルールにより、少なくとも最高裁で男に不利になるような結論の変更、すなわち完全な責任能力が認められて死刑が選択されることはなくなった。
逆に、心神喪失だったと認定され、控訴審判決が破棄されれば、結果の重大性を踏まえてもなお、無罪という結論が導かれることとなる。
2017年に一審判決を受けた者は約5万5千人に上るが、そのうち心神喪失を理由として無罪になったのはわずか6人だった。例年、5人前後で推移している。精神鑑定を踏まえ、検察側ですら被告人の精神状態に何らかの問題があることまでは認めていたような微妙なケースがほとんどだ。
真犯人か否か疑いがあるとされたような場合に比べると、心神喪失を理由とする無罪や心神耗弱を理由とする減軽は検察内でも「致し方ない」といった発想に傾きやすい。刑法の規定に基づくものであるうえ、先ほど示したとおり、責任能力についてはもっぱら裁判所の判断に委ねられているというのが最高裁の判例でもあるからだ。
この事件に対して最高裁がいかなる判断を示すのか注目されるが、いずれにせよ、遺族からすると到底納得できない結論になることだけは間違いないだろう。(了)