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月の石を執務室に飾るバイデン大統領の下で、NASAは中国の持つ月の石を研究できない

秋山文野サイエンスライター/翻訳者(宇宙開発)
Credit: NASA

2021年4月13日、中国国家航天局(CNSA)は、2020年12月に月探査機「嫦娥5号」が持ち帰った月面サンプルを管理する専門家委員会を設置すると発表した。委員会は、月面サンプル研究の方針や研究申請の評価を行う。月面サンプルの最初のデータベースが中国月探査情報サイトCLEPで公開され、サンプルの詳細などを確認できるようになるという。

中国が嫦娥計画で持ち帰った月面サンプルは、1976年にソ連の「ルナ24号」が持ち帰って以来44年ぶりとなる「月の石」だ。長い月面サンプルリターンのブランクを越えただけでなく、13億年前に噴火があったとされる月の火山「リュムケル山」から得られた、比較的若い時代の岩石として科学的な期待が集まっている。だが、米国の科学者は、中国の持つ月面サンプルの研究の国際公募に参加することが難しく、実質的にできないと見られている。これは、オバマ政権時代の法律に基づく決定だ。

米国は1972年まで実施された有人月探査計画、アポロ計画で月面サンプルを300キログラム以上持っている。嫦娥5号が得たサンプルは約1.7キログラムで、米国の持つサンプル量は圧倒的だ。量の点では米国が中国の月面サンプルを研究する必要はないように思える。だが、サンプルの年代が大きく異るため、中国のサンプルは米国のみならず世界の惑星科学者にとって魅力的だ。

アポロ計画がもたらした月面サンプルは、30億年以上前の年代ものだ。嫦娥5号のサンプルは、10~20億年前と若い時代のものである可能性が高く、月の火山活動を解明する上で貴重なものだとみられている。米ワシントン大学のブラッドリー・L・ジョリフ博士によれば、「さらに若い、2~3億年前にアリスタルコスクレーターが形成された際の物質が含まれている可能性がある」といい、クレーター年代学の研究にとって重要なものになるという。

米国の科学者がこのサンプルを扱えないのは、オバマ政権時代の2011年に議会で可決された商業司法科学関連省庁歳出法案の修正条項に、中国または中国企業との2国間協力による活動にNASAの予算を使用することを禁じた項目があるためだ。この修正条項は提案した共和党のフランク・ウルフ元下院議員の名をとって「ウルフ修正条項(Wolf Amendment)」と呼ばれている。ウルフ元議員が条項を発案したのは、人権侵害行為への懸念があったからだという。

ウルフ修正条項は、米中の2国間協力に基づくプログラムにNASAの資金や施設を利用することを禁止、またはFBIに情報提供の上で「安全保障に関わる技術やデータが中国へ流出しない」、「人権侵害に直接関与していると判断された政府関係者との交流が発生しない」という認証を受ける義務を設定している。文字通りに受け取るならば、NASAの資金や施設を使うのでなければ米国の科学者が中国に月面サンプルの研究を申請することも可能なはずではある。ただし、NASAの資金を一切使わないとなれば研究は大きな制限を受けることになるため、実質的に嫦娥5号の月面サンプルに対する制限として機能している。

米国の宇宙専門メディアの報道では、ウルフ修正条項に対して「条項は本当に中国の宇宙活動を望ましい方向へ導く効果を発揮したのか?」という疑問の声があり、評価と再考を求める議論が起きている。2011年以降も中国の宇宙進出は進み、ISSに代わって中国独自の宇宙ステーションを計画し、測位衛星「北斗」を拡張し、嫦娥計画を段階的に次々を成功させ、火星探査機の軌道投入に成功した。NASAとの協力を制限したところで中国の勢いは止まらず、ウルフ元議員が意図した人権侵害への歯止めにもなっていないという趣旨だ。

米シンクタンクのセキュア・ワールド財団は2020年12月に発表した文書で、米国が中国との協力を制限したとしても中国は独自の宇宙外交を展開し、ラテンアメリカやアフリカの諸国と宇宙を軸にした協力関係を築いていると指摘している。科学誌サイエンスも、嫦娥5号の月面サンプルや、貴州省で2016年から稼働している世界最大の電波望遠鏡FAST(500メートル球面電波望遠鏡)が世界の科学者を惹きつけていると指摘した。今後、中国の宇宙ステーションの構築や宇宙望遠鏡の打ち上げなどが続けば、中国の宇宙計画の存在感はますます高まるだろうという。

セキュア・ワールドは、宇宙科学や無人探査の分野に限定してウルフ修正条項を緩和し、スペースデブリや宇宙天気など軌道上の安全に関する情報は中国と共有する方向を探るべきと提言している。また、議会と政権が協力して、中国の宇宙政策をより深く理解する努力をすべきだという。「米国の法と政策は米国自身にとって不利益になっている一方で、中国の宇宙での歩みを止める役割は果たしていない」とも述べている。

今年1月に就任したバイデン大統領の執務室には、「月の石」が飾られている。これは、アポロ計画最後の月面有人探査、1972年のアポロ17号ミッションで持ち帰られたものだ。アルテミス計画による有人月探査への再開の決意を示すものとして置かれているという。だが、月探査で競争の焦点となっている極域の水氷の発見では、NASAのVIPER探査計画と中国の嫦娥6号がどちらも2023年打ち上げを目指しており、正面から競合する可能性がある。米国の科学者に中国の月面サンプル研究を制限したところで競争が有利に働くとは言い切れないだろう。米中の緊張の中でウルフ修正条項の緩和が可能かという点は微妙だが、中国の持つ宇宙での実力を探るチャンネルは持つべき、という提言には一理あると考える。

サイエンスライター/翻訳者(宇宙開発)

1990年代からパソコン雑誌の編集・ライターを経てサイエンスライターへ。ロケット/人工衛星プロジェクトから宇宙探査、宇宙政策、宇宙ビジネス、NewSpace事情、宇宙開発史まで。著書に電子書籍『「はやぶさ」7年60億kmのミッション完全解説』、訳書に『ロケットガールの誕生 コンピューターになった女性たち』ほか。2023年4月より文部科学省 宇宙開発利用部会臨時委員。

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