開拓の歴史の負の側面、ドナー隊の悲劇
19世紀、アメリカでは新たなる土地を求めて多くの開拓民が西部へ入植していきました。
しかし中には目的地に辿り着くことができず、命を落とすことになった開拓民も決して少なくなかったのです。
この記事ではカリフォルニアを目指して西部へと進んでいったドナー隊の軌跡について取り上げていきます。
三度目の救援隊
1847年3月14日、第3次救援隊がトラッキー湖畔に到着したとき、フォスターとエディの子どもたちはすでに命を落としていました。
キースバーグは、エディの子どもの遺体を食べたと告白し、エディはカリフォルニアで彼を見かけたら殺すと誓ったのです。
タムセン・ドナーは夫を見捨てられず、救助隊とともに帰ることを拒否し、夫の元へ戻りました。
その後、さらなる救助隊が派遣されましたが、全てが途中で引き返し、救援は打ち切られました。
4月10日、ドナー家の遺品を回収するために組織された隊が、アルダー河畔でジョージ・ドナーの遺体と生存していたキースバーグを発見します。
彼はタムセン・ドナーがその夜に死亡したと語りました。
回収隊は、彼の小屋から人肉の入った鍋やドナー家の財産を発見し、キースバーグがこれを隠していたことを認めたのです。
最終的に彼は、サッター砦に到着した最後の生存者となりました。
生き延びた人のその後
ドナー隊の生存者は87人中48人にとどまり、その後の人生は悲劇的なものが多かったです。
リード家とブリーン家だけが全員無事であり、他の家族は大きな犠牲を払いました。
孤児となった子供たちの多くは、再婚や養子縁組で新たな生活を始めたものの、その影に深い心の傷が残ったのです。
リード家はサンノゼに移住し、ドナー家の遺児を引き取って育てました。
リードはゴールドラッシュで成功し、裕福な生活を送ったのです。
彼の娘ヴァージニアは、ドナー隊の悲劇を詳細に記した手紙を従妹に送ることにより、後に公にされることになりました。
ヴァージニアは後にカトリックに改宗し、ブリーン家もサン・ワン・バウティスタで旅館を営むなど、それぞれ新たな人生を歩みましたが、社会の目は厳しかったのです。
ドナー家の遺児たちはサッター砦近くの老夫婦に引き取られ、最年少のエリザは後にドナー隊事件に関する本を著しました。
彼女の姉妹や仲間たちも、その後の人生で多くの困難に直面したのです。
例えば、メアリ・グレイブスは夫を殺され、その犯人に食事を差し入れるという異常な体験をしました。
彼女の弟ウィリアムは安住の地を見つけられず、ナンシーは事件の記憶を消そうとしたのです。
ウィリアム・エディは再婚し、カリフォルニアに新たな生活を築きましたが、ドナー隊の一員であったルイス・キースバーグに対する復讐を誓い続けました。
彼の怒りは、友人たちによって辛うじて抑えられましたが、彼は1859年に死去したのです。
晩年のキースバーグは、彼がタムセン・ドナーを殺したという噂に悩まされ続けました。
彼は名誉棄損で告訴しましたが、裁判所はわずか1ドルの賠償を認めるのみで、彼の名誉回復には程遠い結果だったのです。
地元の新聞は彼を冷酷な人物として描き、彼の行動は地域社会に深い不信感を植え付けました。
歴史家のチャールズ・マクグラシャンはキースバーグに直接取材し、彼が殺人を犯した証拠はないと結論付けましたが、彼の晩年は孤独と苦痛に満ちたものであったのです。
キースバーグは次第に世間から隠れるようになり、自らを「全能なる者によって選ばれた犠牲者」と感じるようになりました。
彼の言葉は、ドナー隊事件が生存者に与えた深い心の傷を物語っています。