オルフェーヴルの池添が、ダービージョッキーとなって初めて話せた話とは
オルフェーヴルに仕事人が乗ることになった経緯
2011年にオルフェーヴルでダービーを制した池添謙一。
仕事人というイメージの強い彼が「ダービー前には誰にも絶対に話せない」と胸の内にしまい込んでいた話を紹介しよう。
話は更に3年ほど遡る。08年の安田記念(G1)。ウオッカが制したこのレースでドリームジャーニーの手綱を取ったのが池添だった。
それまでドリームジャーニーには4戦連続で武豊が乗っていた。しかし、このレースには武豊が乗ってG1勝ちをしたスズカフェニックスも出走していたため、彼はそちらに騎乗。ドリームジャーニーには代打で池添が乗ったのだ。代打での依頼だったから当然、この1戦だけの騎乗予定だった。しかし、次走の小倉記念の際、武豊が騎乗停止期間と重なってしまい乗れなくなる。そこで再び声のかかった池添は見事、優勝に導いた。以降、ドリームジャーニーが引退するまでその鞍上を守ると、宝塚記念(G1)や有馬記念(G1)もコンビで制してみせた。
「謙一はそれまでにもデュランダルやスイープトウショウなどいかにも難しそうな馬を乗りこなして大レースを勝っていました。ステイゴールド産駒のドリームジャーニーも難しい面があったので、蛯名(正義)君や(武)豊に頼んだけど、彼らが乗れないなら謙一が適役だと思いました」
池添を鞍上に据えた経緯を、管理していた池江泰寿はそう語った。
自らお願いして後の三冠馬のデビュー戦に騎乗
09年、ドリームジャーニーと共に宝塚記念を制した後の夏だった。デュランダルが繋養されている牧場を訪ねるのが池添の毎年の恒例行事であり、この時も同じようにかつての名スプリンターに再会した。そこで牧場スタッフが1頭の若駒を池添の前に連れて来た。当時まだ1歳。これがドリームジャーニーの全弟であり、後に三冠馬となるオルフェーヴルとの初対面だった。
「1歳なので走るかどうかは見当もつきませんでした」と池添。ただ、翌年、同馬が兄と同じ池江厩舎に入ったのを知るとデビューする時には自ら指揮官に連絡を取り、乗せてもらえないかと頼んだ。兄同様ステイゴールドの仔であり、兄以上に難しい面があると早くから察知していた池江が、断る理由はなかった。10年8月、オルフェーヴルのデビュー戦は新潟だったが、北海道に滞在していた池添がわざわざ乗りに来たのはそんな経緯があったからだった。
こうして仕事人を主戦としたオルフェーヴルだが、新馬戦こそ勝ったもののその後はしばらく苦戦を強いられた。3歳春を迎えるまでの戦績は5戦して1勝のみ。京王杯2歳S(G2)では10着に大敗しており、この馬が後に三冠馬となるとは誰も予想出来なかっただろう。
しかし、チームは早くから先を見据えていた。池添は常に池江から言われていた言葉があった。
「ダービーでよいから」
“ダービーを勝てれば他は負けても良い”というと語弊があるが、要はダービーを勝てるように教育しながら乗って欲しいという意味を内包するひと言だった。池江は言う。
「具体的に一番大きな課題は“折り合い”です。急かす競馬をして折り合いがつかない馬になってしまえばダービーで勝ち負けどころじゃなくなる。それを考えて乗ってくれればたとえ負けても他のジョッキーに乗り替えはしないから、という意味で伝えました」
これは池添の気持ちを楽にさせた。余裕を持って教育出来たためオルフェーヴルはクラシックを前に開花。皐月賞の前哨戦であるスプリングSで新馬戦以来の勝利を挙げると、続く皐月賞も優勝。三冠馬の権利を唯一有して第78回日本ダービーの舞台に駒を進めた。
しかし、それまで池添の気持ちに余裕を持たせてくれていた「ダービーでよいから」という言葉は、いざ本番を迎えるとズシリとのしかかる魔法のひと言となった。
5月29日のダービー当日、更に重圧のかかる出来事があった。朝、東京競馬場の調整ルームで目を覚ました池添はまずカーテンを開けて外の空模様を確かめた。前日は雨天。その雨足が更に強まっているのがひと目で分かった。その瞬間「うわっ!!」と声が出た。不良馬場確定の空を見上げ「せっかくなら力を発揮しやすい綺麗な馬場でやりたかった」と思った。
ダービーの緊張をほぐしてくれた人と馬
ビッグレースに臨むジョッキーの心理は様々で、中には「G1前は騎乗数を絞って1鞍に集中したい」という人もいるが、池添は違った。「時間が空くと落ち着かない」ため「出来る限り乗っていたい」と願うタイプだった。この日も午前中は2レース、午後も3鞍乗ってからダービーに臨んだ。それでも緊張感が払拭出来たわけではなかった。この大舞台で単勝1番人気馬に騎乗する。緊張するなという方が無理な話だった。しかし、レース直前のパドックで、そんなプレッシャーを少しだけ払いのけてくれる人馬がいた。
馬はもちろんオルフェーヴル。跨って「いつもと同じ背中」と感じると、余計な力が抜けていくのが自分でも分かった。
そして人は、現在は調教師になるため騎手を引退した四位洋文だった。池添は述懐する。
「僕がデビューした当初から四位さんには何かと相談に乗ってもらっていました。オルフェーヴルで皐月賞を勝った後も食事をして、緊張する胸の内を洗いざらい話したんです」
そんな四位とパドックで目が合った。すると、この先輩ダービージョッキーは黙って頷いた。
「それだけで勇気づけられた気がしたので、僕も黙って頷き返しました」
こうして競馬へ向かうとパートナーは極端な道悪に戸惑う事もなく走ってくれた。ゴーサインを送るといつも通りエンジンに火を点した。「窮屈なところに押し込まれたけど、そのたびにハミをとってグイグイ伸びるオルフェーヴルの勝負根性には驚かされました」と池添。降りしきる雨と馬群を切り裂いて誰よりも早くゴールへ飛び込んだ。
口取り写真の撮影や表彰式にインタビューなど、ひと通り終え、検量室に戻ると再び四位と目が合った。次の刹那、池添は四位に抱きついていた。
ダービーを勝って初めて語った話
このダービーを終えて、池添が初めて人に話した話があった。
「実はデビューしてすぐの頃にダービーを勝つ夢を見ました。でも『夢で見た事を人に話すと実現しない』と聞いた覚えがあるので誰にも話せずにいました」
この話を発表出来るまでに要した時間は14年。しかし、ダービーに手が届かないまま鞭を置くジョッキーがほとんどの中で、この歳月は決して長いそれではない。そのくらいダービーを勝つのは偉業であり、皆の目標なのである。
さて、今年のダービーに池添はオルフェーヴルと同じ池江厩舎のヴェルトライゼンデで挑む予定でいる。父はドリームジャーニー。伯楽がどう仕上げてきて、仕事人がどんな手綱捌きを見せてくれるのか。期待したい。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)
*今回の原稿は過去の取材を元に改めて構成いたしました。
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