後藤浩輝の死から間もなく4年。亡くなる4日前に師匠の下を訪れた彼がとった行動とは……
決別
丁度4年前。2015年2月23日。1人の女性が調教師・伊藤正徳の下を訪ねて来たところからこの物語は始まる。
女性は後藤浩輝の妻。伊藤の妻・真由美さんが招き入れ、食事を振る舞った。
「浩輝はトレーニングか何かで来られないと言う話でした」
しかし、程なくして後藤が現れた。
師匠と弟子。それぞれの夫人も一緒に4人で囲んだ食卓は笑顔の花咲く和気あいあいとしたムードに包まれた。
「可愛らしい坊主」
後藤に対する第一印象を、伊藤はそう語る。
両親を伴って美浦トレーニングセンター北D-3に構える伊藤の厩舎を訪れた後藤は、当時、競馬学校生。坊主頭の少年だった。
「うちには浩輝君より少し年下の子供達がいて、テレビゲームが設置されていました。浩輝君はそれを見て、やりたくて仕方ないという感じで親御さんの顔色をうかがっていたのが可愛かったです」
そう述懐するのは真由美さんだ。
ただ、1992年に後藤が騎手デビューを果たすと、伊藤の立場としては「可愛い」とばかりは言っていられなくなった。可能な限りのサポートはしたものの、馬主の関係やレースの格などを考えると、経験の無い若者を無闇に乗せるわけにはいかなかった。
一方、後藤から見える景色はまるで違った。
「乗せてくれれば勝てる」
世の多くの若者がそうであるように、彼には根拠無き自信があった。
なんでも任せて欲しい後藤と、全てを委ねるわけにはいかない伊藤。どちらが悪いわけではない。師匠と弟子の間に、大昔から”いろはのいの字”のように当たり前に存在するひずみが、2人の間にも生じた。そして最後は後藤が半ば逃げ出すように厩舎を飛び出す形で、決着の時を迎えた。
1996年、後藤、アメリカ遠征。これを境に帰国後も伊藤の馬に後藤が跨る事はなくなった。
和解
しかし、ガラス細工のように砕けたと思われた師弟関係は、思わぬ形で修復する。いや、後に、実は地下水脈のように人の目につかぬところで、脈々と2人の間に流れ続けていた事が判明する。
1999年、後藤は後輩騎手といさかいを起こし4ヶ月に及ぶ騎乗停止処分をくだされる。その時、人知れず奔走したのが伊藤だった。迷惑をかけた関係各方面に頭を下げ、弟子の更生に手を差し伸べた。
これを機に2人の仲は雪どけした。騎乗停止期間があけると、伊藤は自らの管理馬に5年ぶりにかつての弟子を乗せたのだ。
しかし、実際には表面化しているほど2人の仲がこじれたわけではなかった事が後に分かる。
そもそも後藤が厩舎を飛び出してアメリカへ行ったと思われていたが、渡米前に通った英会話スクールの費用をもったのは何を隠そう伊藤だった。また、伊藤厩舎の馬に騎乗する事の無くなった時期にも後藤が次のような言葉を口にしていたのを私は覚えている。
「今朝、正徳先生がいなかったから、伊藤厩舎の馬の調教に乗っちゃいました。追い切りじゃないし、人手も足りていなかったみたいだから、万が一先生に知られても叱られる事はないでしょう」
そう言って悪戯小僧のようなあの人懐こい笑顔を見せた。
伊藤と後藤が再び心を一つにして勝利を目指すようになってからの代表馬としてはローエングリンがいる。
2003年には中山記念とマイラーズCを優勝。秋にはフランスへ遠征して2戦。ムーランドロンシャン賞では2着に善戦した。
直後の天皇賞(秋)ではスタートから競り合ってしまい大失速。その後しばらく他の騎手に鞍上を譲ったが、07年の中山記念でまたもタッグを組むと見事にこれを制覇。レース後のジョッキーの目には光るモノがあった。
「ローエングリンの勝負服を額装して贈ってくれたり、誕生日のたびにお祝いしてくれたり、還暦の時には部屋中を飾り付けしてサプライズパーティーでもてなしてくれたり、とにかくマメな男でした」
そう語る伊藤に「今の自分がいるのは好き勝手していた自分を見守ってくれた伊藤先生のおかげ」と後藤が自らの結婚式で号泣しながらスピーチしていましたね?と言うと、次のように答えた。
「なんか言っていたね。よく覚えていないけど……」
そう言いながら照れてみせる表情は、覚えていない事はないだろうと思わせるそれだった。
再び、決別
冒頭に記したように15年の2月23日、伊藤の下を、後藤夫妻が訪ねて来た。
伊藤夫人の作る手料理に舌鼓を打つ後藤を述懐するのは、その真由美さんだ。
「浩輝君は『美味しい、美味しい』って言いながら、何杯もおかわりしてくれました。そして、競馬学校生時代に厩舎実習で来ていた時の事を思い出して『真由美さんが”食べなさい、食べなさい”と言うのが、体重管理をしていた若い僕には拷問のようだったんですよ』って言いながら笑っていました」
「楽しい時間だった」と言った伊藤は自らに言い聞かせるように頷くとしばらくの間、口を閉ざした。その沈黙が「まさかそれから僅か4日後に自ら逝ってしまうとは、今でも信じられない」と語っていた。
「亡くなったのはJRAからの電話で知りました。最初は『どこの後藤ですか?』と聞き返しました。その後、妻の携帯に浩輝の奥さんからの不在着信が何度も入っている事が分かり、すぐに浩輝の下へ駆けつけました」
そこで事実を目の前にして、納得したが、理解は出来なかった。
そんな伊藤も70歳となり、この2月末日をもって定年。今週末の競馬を最後に調教師は引退する事になる。
騎手時代にはダービーを勝ち、調教師としてもG1を制した。そして定年まで全う出来たホースマン人生を幸せだったと語るが、唯一の心残りが後藤浩輝の事だと続ける。
「何があったのかとか、気付いてあげられなかったかとか、今でも自問する事があります。でも、答えは出ない。釈然としない気持ちだけが残るんです」
こう語った後、口をつぐむ伊藤の横で話に耳を傾ける真由美さんが後を引き取る。
「浩輝君は『やる事が沢山あり過ぎて寝る時間がない』と言っていました。普通に生きている人が一生かけて使うパワーを短い人生の中で全て使い切ったのだと思います」
そう語る目がうるみだす。
すると、そんな雰囲気を振り払おうと、再び口を開いた伊藤は私もあと何年生きられるか分からないけど、と言ってから、更に続けた。
「浩輝の事だから、私がいつ向こうへ行っても大丈夫なように、今頃は歓迎会の準備で忙しくしているんじゃないかな。そう思うと私も何も心配する事なく逝けますよ」
残された人の為にすら孝行する。そんな生き方を後藤はして来た。そう思える伊藤の言葉ではあるが、いや、それは違うかもしれない。伊藤の本心。それは今週末のラストランで後藤に乗ってもらいたかったのではないだろうか。その願いが潰えてから、間もなく4年の月日が経とうとしている。後藤は、果たしてどんな想いで師匠のラストランを見守るのだろう。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)