低賃金プレカリアートに生きる権利を 最低賃金1558円に ドイツ次期首相は社会民主主義者ショルツ氏へ
「信号機」連立か
[ロンドン発]政界を引退するアンゲラ・メルケル首相の次を選ぶドイツ総選挙の投票が9月26日に行われました。中道左派、社会民主党(SPD)の得票が中道右派、キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)を上回り、第1党になりました。
連立協議にはかなり時間がかかりますが、SPDのオラフ・ショルツ財務相が首相になる見通しです。SPDが第1党になるのは実に2002年以来のことです。
当初、大本命とされたCDU・CSUの統一首相候補アルミン・ラシェット氏は今年7月、地元の独西部を襲った豪雨で200人以上が亡くなった洪水災害で舌を出して爆笑する様子をカメラにとらえられ、失速。「首相候補になったのは冗談」と嘲笑され、「死に馬」のはずだったSPDのショルツ氏にまさかの大逆転を許してしまいました。
公共放送、第2ドイツテレビ(ZDF)によると、SPDが26%(5.5ポイント増)で首位。CDU・CSUが24.5%(8.4ポイント減)、緑の党13.9%(5ポイント増)、中道・自由民主党(FDP)11.7%(1ポイント増)、極右政党「ドイツのための選択肢(AfD)」10.5%(2.1ポイント減)、左派党5%(4.2ポイント減)。(現地時間26日午後10時53分時点の予測)
事前の予想では2大政党のSPDとCDU・CSUの票を合わせても50%に達しないとみられていましたが、何とか50%を超えました。議席予測による連立(過半数は371議席)の選択肢は次の通りです。1990年のドイツ再統一後初の「3党連立」政権が誕生する可能性が強まっています。
(1)417議席、赤(SPD)210議席・緑(緑の党)112議席・黄(FDP)95議席の「信号機」連立
(2)408議席、赤(SPD)210議席・CDU・CSU(黒)198議席の「革保大連立」
(3)405議席、CDU・CSU(黒)198議席・緑(緑の党)112議席・黄(FDP)95議席の「ジャマイカ」連立
主要政策は最低賃金引き上げと家賃抑制
第1党のSPDを軸に連立協議が進められます。ショルツ氏は低賃金労働者に配慮して全国一律の法定最低賃金の9.6ユーロ(1246円)から12ユーロ(1558円)への引き上げ、家賃の抑制、高所得者増税を目指しています。FDPは伝統的に自由放任、市場主義を支持する政党で、最低賃金の引き上げに難色を示す可能性があります。
その場合、SPD主導の「大連立」を模索するかもしれません。3番目の選択肢の「ジャマイカ連立」はあり得ないでしょう。総選挙の結果は明白にCDU・CSUのラシェット氏を拒否しているからです。最大のポイントはFDPが経営者に不評の最低賃金引き上げをのむかどうか。ショルツ氏は「1千万人近い人に恩恵がある」と訴えてきました。
ドイツでは2015年に全国一律の法定最低賃金(時給8.5ユーロ)が導入されました。それまでは産業別、地域ごとに労働組合と使用者団体の労働協約によって最低賃金が定められ、全国一律の法定最低賃金はありませんでした。しかし労組の組織率が低下し、労働協約の縛りから逃れる使用者も出てきたため、低賃金労働者を保護する必要に迫られていました。
最低賃金額は17年に時給8.84ユーロ、19年に9.19ユーロ、20年に9.35ユーロ、21年1月に9.5ユーロ、同年7月に9.60ユーロに引き上げられました。22年1月に9.82ユーロ、同年7月には10.45ユーロに引き上げられる予定です。21年からの2年間で労働者の収入は20億ユーロ増える見込みで、労組は12ユーロへの引き上げを目指していました。
ショルツ主義の3つの柱
英政治雑誌ニュー・ステーツマンの国際担当ジェレミー・クリフ氏は「オラフ・ショルツ氏とSPDはどのようにドイツの次期政府を導くか」という大型記事の中で次のように指摘しています。
繊維工場で働く労働者の息子として生まれたショルツ氏は17歳でSPDに入党。SPDの青年組織副リーダーや国際社会主義青年連合副会長を務め、世界の資本主義は革命前の最終段階だと主張するグループに参加して左派政治に没頭する怒れる若者でした。「資本主義への勝利」を訴え、「攻撃的帝国主義の北大西洋条約機構(NATO)」を批判していました。
年齢を重ねるごとに、左派から現実的な穏健路線に舵を切り、実績を積み重ねてきました。しかし、カリスマ性のないロボットのような政治スタイルは揶揄され、CDU・CSUのラシェット氏が災害現場での“爆笑事件”で自滅するまでは「勝つ見込みのない候補」と馬鹿にされていました。クリフ氏はこう解説します。
「ショルツ主義には3つの柱がある。第1の柱は中産階級の進歩主義者、旧来の労働者階級、新興のプレカリアート(フリーター、契約社員、派遣社員などの非正規雇用形態で生計を立てる人)の橋渡し役として社会民主主義を回復することだ。大卒エリート主義のプロジェクトではない、人間らしい生活を送る権利、良い仕事がもたらす尊敬と尊厳の保証人としての社会民主主義を目指している」
「第2の柱は党内融和だ。SPDは長い間、分裂の代名詞となっており、2004年以降、8回の党首交代を繰り返してきたが、ショルツ氏は党内派閥間の休戦に動いてきた。党内左派をつなぎとめるため最低賃金の引き上げ、安定した年金、年間40万戸の住宅建設など党の主要な選挙公約の基礎を築くことができた」
「第3の柱は政策実現のためのリーダーシップだ。ショルツ氏はメルケル政権で3年間、財務相を務め、巨額のコロナ緊急経済対策、7500億ユーロ(約97兆2900億円)にのぼる歴史的な欧州連合(EU)のコロナ復興基金、法人税の最低税率を15%にするという先進7カ国(G7)の合意を押し通した。彼は経験豊富なネゴシエーターだ」
日本の最低賃金は時給930円
日本の最低賃金は他の先進国に比べ高くありません。
コロナ対策で後手、後手に回り、退陣に追い込まれた菅義偉首相は最低賃金について「できるだけ早く全国加重平均1千円にしたい」と決意を示してきました。厚生労働省は8月、人口を加味した全国平均額を28円増の時給930円に引き上げました。それでもドイツには遠く及びません。
賃金を低く抑え過ぎると個人消費が落ち込み、景気が低迷するだけでなく、社会不満がたまり、いずれは爆発します。トランプ現象やイギリスの欧州連合(EU)離脱はその象徴です。
日本の労働市場には正規雇用のシニアを守る保護主義がはびこっていました。安倍晋三前首相の経済政策アベノミクスによる円安・株高で輸出企業は社内留保を積み上げ、資産家は株式や不動産への投資で資産を膨らませました。最低賃金を上げると雇用が減るという理由で、プレカリアートは搾取され続けてきました。
経済のグローバル化やデジタル化で生産拠点が途上国に移り、国内の労働者は途上国の低賃金労働者に仕事を奪われ、さらに単純労働はテクノロジーに取って代わられています。労組の組織率低下とともに労働分配率は下がり、労働者の賃上げより投資家への配当が重視されてきました。
コロナで焼け太りする日本の富裕層や優良企業
最低賃金の引き上げで個人消費が増えて経済が上向きになるのか、それとも中小・零細企業の経営を圧迫して雇用が減るのか――。日本も状況を見ながら最低賃金を少しずつ上げていく必要があります。
賃金を低く抑えたままだと工夫がなくても経営を続けることができるため、イノベーションを停滞させてしまいます。最低賃金の引き上げだけでなく、若者たちにデジタル時代に対応できる教育を行い、時代についていけなくなった労働者に職業訓練を実施していかなければなりません。
日銀の資金循環統計(速報)によると、今年6月末時点の家計が持つ金融資産は1992兆円。比較可能な05年以降で過去最高を更新しました。19年9月末から137兆円も増えています。現金・預金は1072兆円、証券が325兆円。コロナの影響で消費が抑えられる一方で、株価が高騰し、金融資産も膨れ上がりました。
金融以外の民間企業でも金融資産も19年9月末から87兆円増えて1226兆円。現金・預金は316兆円、証券は396兆円でした。
コロナ危機でプレカリアートは困窮しているのに、高所得層や優良企業は焼け太りしました。これが貧富の格差拡大の現実です。自民党総裁選が行われ、総選挙を控える日本にいま求められているのはプレカリアートを救済せよというショルツ主義ではないでしょうか。
(おわり)