集団的自衛権の論じ方 日本国憲法が禁じることは?
16日にも15事例提示
政府の有識者会議「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(座長・柳井俊二元駐米大使)が13日に集団的自衛権の行使容認を求める報告書を出す。
日経新聞によると、安倍政権はこれを受け、16日にも(1)集団的自衛権(2)集団安全保障(3)有事手前のグレーゾーンの3分野に分け、計15程度の具体事例を提示するそうだ。
「集団的自衛権」の議論は国民にはわかりにくい。これに「集団安全保障」と、有事手前の「グレーゾーン」を合わせて論じようというのだから、ますますこんがらがるに違いない。
基本的に国民は理解できないことには拒否反応を示す。こんなに複雑で難しいものを国民の前にそのまま提示しても、とても理解されるとは思えない。
恥ずかしながら大阪で事件記者を16年間もした筆者は政治の話にはとんと疎かった。東京に転勤となり、3年間、政治部で憲法を担当することになった。
内閣法制局の憲法解釈を読み込み、当時、自民党幹事長だった安倍晋三首相をはじめ、仙谷由人・民主憲法調査会長、太田昭宏・公明憲法調査会座長、衆院憲法調査会の中山太郎会長、山崎拓首相補佐官(肩書はいずれも当時)、中曽根康弘、宮沢喜一両元首相、内閣法制局長官らに片っ端からインタビューした。
憲法や安全保障問題に詳しい自民党政調会の田村重信調査役の教えを乞い、慶応大学の小林節教授(当時)に大学院の非常勤講師にまでしてもらった。
それでも「集団的自衛権」が実際に何を意味するのか、さっぱりわからない。国会答弁や答弁書を読めば内閣法制局の憲法解釈の字面はわかる。
内閣法制局の論理は形而上学
例えば集団的自衛権の定義はこうだ。「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」
自衛権発動の要件は
(1)わが国に対する急迫不正の侵害があること
(2)これを排除するために他に適当な手段がないこと
(3)必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
である。
しかし、内閣法制局の論理は形而上学そのものでわかりにくく、政治家によって説明や理解の仕方は微妙に異なっていた。
筆者は「集団的自衛権」を公論に付すことが政治的に賢明とは思えない。そんな実務的なことは内閣法制局か防衛省の官僚、安全保障の学者に任せておけばいいと思う。
「集団的自衛権」の発動を口実に第二次大戦後も多くの侵略行為が行われており、「イエス・オア・ノー」という形で議論すると国民のアレルギー反応を引き起こしやすい。
公明党の同意を得た特定秘密保護法でさえ、あれだけの反発を招いたのだから、公明党の反対を押し切って集団的自衛権をめぐる憲法解釈を変更するとなると、混乱を招くのは必至だ。
アンチ安倍キャンペーンの格好の材料を提供することになるのは目に見えている。
地理的制限は求めない
産経新聞によると、有識者会議の報告書は、集団的自衛権を行使する条件として(1)密接な関係にある国が攻撃を受けた場合(2)放置すれば日本の安全に大きな影響を及ぼす場合(3)当該国からの明示的な支援要請に加え、「国会の承認」を求める――という。
「地理的制限は求めない」とある。ここまで範囲を広げるとなると、解釈変更でいけるのかどうか。憲法改正が必要になるというのが自然な考え方だろう。野党を正面突破するどころか、その前に連立を組む公明党が卒倒しかねない内容だ。
運用上、「集団的自衛権」と「個別的自衛権」を完全に切り離して考えるのは難しい。在日米軍基地が攻撃を受けた場合の自衛権発動、周辺事態の後方地域支援、対テロ戦争の協力支援活動、イラク復興支援はすでに「集団的自衛権」の領域に踏み込んでいる。
国際法上、日本は集団的自衛権を有するが、憲法上は行使するのを禁じているというのが内閣法制局の憲法解釈だ。しかし、「非戦闘地域」「武力行使との一体化論」というフィクションを作り上げ、内閣法制局は自民党政権の対米支援に進んで協力してきた。
憲法解釈変更による集団的自衛権行使の容認に内閣法制局が難色を示していることを非難するのは筋違いだ。内閣法制局はある意味、日本が戦後、憲法解釈を拡大してきた影の功労者だったからである。
現行憲法の禁止事項
それでは現行憲法は一体、何を禁じているのだろう。
これまで目を通した文献の中で一番わかりやすかったのが、『中曽根康弘 宮沢喜一 改憲VS護憲 憲法大論争』(朝日文庫)である。改憲派と護憲派の大御所が縦横無尽に憲法論を展開する。
護憲派の宮沢元首相の憲法解釈は単純明快だ。現行憲法が禁じているのは、「外国における武力行使をしてはならない」ことだという。
確かに、北朝鮮が核弾頭を搭載した弾道ミサイルの発射を準備していることがわかった場合、日本には個別的自衛権として敵基地攻撃権が認められているが、実際にはその能力を有していない。米軍に攻撃をお願いしなければならない。
ただし、個別的自衛権に当たるこのケースは政策判断で変更できる。
今後、中国の軍備増強が一段と進むことを考えると、集団的自衛権の行使を認めておくことは、日米同盟を強固にする上で不可欠だ。行使を容認しても実際に行使するかどうかはその都度、その都度の政策判断になる。
しかし、政治家なら「集団的自衛権」や「集団安全保障措置」といった専門用語は使わずに、国民が理解しやすい言葉を使う方が賢明だ。まして世論調査で反対が賛成を上回り、公明党が拒絶反応を示す中、「集団的自衛権」という言葉をわざわざ対立軸にすることは政治的にリスクを伴う。
宮沢流に「外国における武力行使をしてはならない」をガイドラインにして、有識者会議が示すケースをわかりやすく検討していく方が国民の理解を得やすいのではないか。
筆者は現行憲法がすべての集団的自衛権を否定しているとは考えない。しかし、「外国における武力行使」を認めるとなれば、やはり憲法改正を避けては通れない。そこまで有識者会議の報告書をもとに憲法解釈で変更するとなると、そもそも現行憲法が何を規定していたのかわからなくなる。
現行憲法でも大概のことはできる
想定されるケースをこれまでの論議や報道をもとに例示してみる。
(1)日米の艦艇が公海で共同行動中、攻撃を受けた米艦の防護
(2)日本上空を通過して米国に向かう弾道ミサイルの迎撃
(3)国連平和維持活動(PKO)で他国の部隊が襲われた場合の救援
(4)PKOにおける他国の部隊への後方支援
(5)米国を攻撃した国に武器を供給する船舶への臨検
(6)近隣有事での米国などへの攻撃排除、国連決議に基づく国連活動への参加
(7)日本への原油輸送に関わる海峡封鎖時の機雷除去
(8)外国潜水艦が領海内から退去しない場合の実力行使
(9)武装漁民による離島占拠への対応
(10)海外での邦人救助
イラクに陸上自衛隊を派遣できたように、現行憲法下でも大概のことはできるだろう。筆者の個人的な見解だが、日本や周辺の公海で共同行動中の米艦艇が攻撃された場合は在日米軍基地への攻撃と同様、「個別的自衛権」の範囲で対処できるのではないか。
外国や遠方の公海での行動は、従来通り「戦闘地域」を避け、「武器使用」にとどまる範囲で慎重に活動するのが妥当だろう。
老婆心ながらイランが対話路線に転じているときに、真っ向から対立を想定して機雷除去を論じることが果たして賢明なのかと懸念する。原発再稼働が進まない中、エネルギー確保は日本の生命線である。
国家は自らの国益を最大化するように行動する。中国が経済成長に伴って国益の最大化を図るのは歴史が物語る必然である。その変化に対応できない国家は淘汰される。
米国が衰退し、中国が対応する中で、日本が紛争や戦争のリスクを最大限に減らすためにできることは、日米同盟を揺るぎないものにして中国に隙を見せないことである。
そのためには筆者は憲法を改正して集団的自衛権の行使を容認することが最善の策だと考えるが、それができないなら、現行憲法下で、集団的自衛権を行使できる範囲を柔軟に広げることが必要だ。
その歯止めは究極的に「外国における武力行使をしてはならない」ということになる。だから、集団的自衛権を論じるのは政治的に意味がない。自衛隊は「盾」と米軍は「矛」の役割を変更するのなら、国民に丁寧な説明が必要になる。
現行憲法が禁じる「外国における武力行使をしてはならない」というガイドラインを国民に示して、それは憲法解釈では変更しないという一線を確認することだ。その上で、「外国における武力行使」に発展する可能性がある事例も含めて検討すればいい。
国際政治はパワーと闘争
ウクライナ問題を見てもわかるように、強力な同盟関係も持たず、自国の領土を自分で守ることができない国を誰も助けに来てくれない。経済的に自立できず、欧州連合(EU)とロシアの間で優柔不断な態度をとった結果が現在の混乱を招いてしまった。
「国際政治はパワー、闘争、妥協の領域である」(国際政治学者ケネス・ウォルツ)
ナチス・ドイツのヒトラー、ソ連のスターリンに蹂躙されたポーランドとバルト三国は北大西洋条約機構(NATO)やEUに加盟して安全保障を強化している。
訪欧から帰国した安倍首相は9日、首相官邸で自民党の石破茂幹事長と会談し、「なるべく実感を持ってわかってもらえるようなものにしたい」と集団的自衛権を行使する具体的な事例を示す考えを改めて示した。
国内政治と国際政治のハンドリングは難しい。成長戦略の早期実現が求められる経済政策アベノミクスと同様、安全保障でもこれから安倍政権の真価が問われることになる。
【安倍首相訪欧】シリーズはこれでおわります。