Yahoo!ニュース

亡き夫が残した卓球サインラケット SNSで浮かび上がった伝説の名選手

伊藤条太卓球コラムニスト
写真提供:船ヶ山昌子さん

愛知の船ヶ山昌子さんという方からメールをいただいたのは、今年の5月初めだった。ご本人は触れなかったが、船ヶ山昌子といえば、全日本卓球選手権マスターズ(年代別大会)で優勝6回の大御所で、昨年もハイシックスティ(65歳以上)で3位に輝いている。中でも、1999年からの5年連続準優勝の記録は圧巻である。

そんなトップ選手が私に直々にメールをくれるとは何ごとだろうか。怒られることぐらいしか思いつかない。私がどこかで書いた記事に間違いか失礼な記述でもあったのだろうか。そんな胸騒ぎを覚えながらメールを読み進めると、思いもよらない内容だった。

謎のサインラケット

船ヶ山さんは10年ほど前に夫の陸男(むつお)さんを亡くした。その遺品を整理したときに、誰のものかわからないサインがしてある長さ14センチほどのミニラケットを見つけた。

船ヶ山陸男・昌子さん夫妻 2008年撮影(写真提供:船ヶ山昌子さん)
船ヶ山陸男・昌子さん夫妻 2008年撮影(写真提供:船ヶ山昌子さん)

謎のサインラケット(写真提供:船ヶ山昌子さん)
謎のサインラケット(写真提供:船ヶ山昌子さん)

見覚えがない物だったため、結婚する前、すなわち1980年以前のものだと思われた。陸男さんは、宮崎工業高校時代にシングルスとダブルス(パートナーは昨年の全日本選手権ホープス[小6以下]3位、郡司景斗くんの祖父・景勝さん)でインターハイに出たこともあり、実業団でも続けたほどの卓球好きだった。

1987年、当時36歳の陸男さん(右)と、高校時代のダブルスのパートナーの郡司景勝さん(写真提供:船ヶ山昌子さん)
1987年、当時36歳の陸男さん(右)と、高校時代のダブルスのパートナーの郡司景勝さん(写真提供:船ヶ山昌子さん)

その陸男さんが大切に保管していたのだから、名のある方のサインなのだろうと、飾り棚の奥の方に飾った。その後もサインの主はわからず、掃除をする度に「誰?」と思いながら数日、数ヶ月、いつしか10年が経っていた。

今年のゴールデンウイークに息子家族が帰省した際、4歳の孫がそのラケットを取り出して振り回し始めたことから、あらためて「これ誰?」という話になったが、やはりわからなかった。

そんなとき、母の日である5月8日を迎えた。ちょうど69歳の誕生日だったので、自分へのプレゼントのつもりで「卓球のことなら何でも知っているはず」と私に思い切ってメールをくれたのだという。

ツイッターで募るも正体わからず

なんとも大役を仰せつかったものだが、そこまで期待されては応えないわけにはいかない。しかし、送られてきたサインの写真にはまったく見覚えはないし、読めもしない。ネットで画像を検索しても似たものはないし、蔵書の卓球雑誌のページを繰ってみても、そもそもサインなど載っていない。

これはダメだとすぐに諦めて、ツイッターでフォロワーに助けを求めると、いつになく多くのリツイートをいただいた。私はサインを知ってる人がいないか聞いたつもりだったのだが、卓球マニアたち(恐らく)の間で、ああでもないこうでもないと解読合戦が始まった。

「竹之内君明さんではないか」「2文字目の省略の仕方に松崎キミ代さんのサインに類似点がある」「伊藤繁雄と松崎キミ代が二人で書いたのでは?(そんなバカな!)」「最後の文字は和な気がする」「玄静和?(韓国)」という具合だ。中には見る方向を変えて「Michael Maze(ミカエル・メイス)と読めなくもない」というアクロバティックな説も現れた。アクロバティックにもほどがあるが、たしかにどの方向から読むのか決まっているわけではない。「これは!」と浮足立ったが、ほどなくメイスのサインはまったく違うことが判明し、単なる頭の体操に終わった。

大友秀昭さんによるアクロバティックな解読(船ヶ山昌子さん提供の写真を大友さんが加工)
大友秀昭さんによるアクロバティックな解読(船ヶ山昌子さん提供の写真を大友さんが加工)

その夜の日付けが変わった頃に現れたのが「最後の文字が樹に見える」という投稿だった。そう言われれば確かに樹に見える。これは樹だ。最後が樹の卓球選手と言えば、1980年代に世界選手権にも出た林直樹が思い浮かぶ。当時としては珍しいシェークハンドドライブ型の選手だった。だが1文字目がどうしたって林には見えないし、2文字目も直ではない。日産自動車で活躍した戸田冬樹という選手もいたが、時代が違うしやはり1文字目が戸には似ても似つかない。もしかして中国人か韓国人なのではないかと、世界選手権や外国籍でも出られる全日本社会人選手権の記録を眺めたが、樹そのものが見つからない。

ツイッターでのやりとりを見ていた船ヶ山さんから

「なんだか大事になってしまって恐縮しています。今となっては人の名前かどうかも疑わしくなってきましたので、お願いしておきながら勝手を言って申し訳ありませんが、適当なところで打ち切ってください。ありがとうございました。もうこれで十分です」

とメールが来た。

「もうこれで十分です」などと悲しいことを言われると、ますますなんとかしてあげたくなる。それにしても、たしかに卓球選手ではないかもしれない。卓球ショップのオーナーが店の名前など書いたのかもしれないし、そもそも漢字ですらないかもしれない。そう言われれば、樹に見えた部分の端っこの曲がり具合が、タイ語あたりの文字のようにも見える。その国の選手が日本で世界選手権でもあったときにサインしたのかもしれない。だとすれば考えてもわかるわけがない。それとも、あくまでも漢字である可能性を考えて、思い切って中国と韓国のネットユーザーに捜索の網を広げるべきか(そんなツテはないのだが)。

突然の暁光「キントキ芋の助」さんの投稿

その投稿が現れたのは、翌朝のことだった。

 キントキ芋の助

 [午前11時14分 2022年5月9日]

 見た感じ『北村秀樹』とも読めそうですが・・・

北村秀樹?北村秀樹と言えば、決勝で長谷川信彦を破って全日本学生選手権を制したにもかかわらず、卓球界から忽然と消えた伝説の隻腕選手だ。確かに・・・読める。縦に長く伸びた線は北の偏の一部だ。村もそう読んで矛盾がないし、中ほどには秀の一部の乃がはっきり見える。これは北村秀樹かもしれない。驚いて「たしかにそう読めます!それかもしれません」と書くと、「そういうお名前の方がいらっしゃるのですか?」ときた。驚いたことにこの方、北村秀樹を知らずにそう読めたというのだ。とんでもない眼力である。それならなおさら北村秀樹に間違いない。なんということだ。これは北村秀樹のサインだったのだ!

伝説の名選手 北村秀樹

北村は、私が毎月執筆している月刊誌『卓球王国』の2013年2月号で、当時68歳で取材を受けている。1944(昭和19)年に兵庫県神戸市に生まれたが、生後8ヶ月のときにアメリカ軍の空襲で右肩から先を失った。いわゆる神戸大空襲だ。中学1年から卓球を始めて名門、神戸商業高校に進み、インターハイで団体準優勝、シングルスとダブルスで3位の成績を残した。専修大学に進むと大野充平と組んだダブルスで2年、4年で優勝、3年のときにはシングルスでも優勝した。鍛え抜かれた身体を持ち、得意技はバック側に大きく回り込んで打ってからフォアに振られたボールを飛びついてスマッシュすることだった。片腕だけでの腕立て伏せ(ときには女子選手を背中に乗せて行った)、45度の傾斜をつけた台の上で100回の腹筋を楽にこなす鍛え抜かれた身体がそれを可能にした。

将来を嘱望されたが、大学卒業とともに第一線を退いた。あまりにも短い選手生命だった。

1966年の欧州遠征で活躍する北村秀樹(写真提供:卓球王国)
1966年の欧州遠征で活躍する北村秀樹(写真提供:卓球王国)

インタビューで印象的だったのが、北村が選手時代に報道に対して抱いていた思いだった。生まれてこのかた片腕が不便だと思ったことなどないのに、活躍し始めると「身体障碍者に希望を与えた」とか「ハンディを克服した」といった取り上げ方ばかりがされた。大した成績だとも思っていないのに大げさに持ち上げられることがかえってプライドに障ったし、他の選手にも申し訳なく感じた。『左腕の青春』などという北村を題材にした短編映画が何本も作られたが、どれひとつとして見たことはなかった。

「今になって考えてみれば、あれほど反発せずに、認められるところは認めれば良かったと思う。わたしの精神が未熟だったということです」

そう北村は語っている。

左腕だけで学生日本一に 伝説の卓球プレーヤー(神戸新聞NEXT)

専修大学の同期で後に全日本卓球チームのマッサーも務めた松本雅徳は「最高にいいヤツでした。サムライというか、一本気というか、自分のことを決して自慢しない男だった」と北村を評している。2年下の後輩で、後に世界チャンピオンとなる河野満は「言うことはいつも正論。頑固で曲がったことが大嫌い。北村さんになら、たとえ殴られたとしても納得した」と語った。当時取材をした編集部員も北村の印象を「スラリと伸びた背筋、相手の視線をとらえて離さない眼光の鋭さは、往年の名剣士のような迫力」と書いている。

これほどまでに周りから慕われ、尊敬されている選手も珍しい。

「間違いありません。私のサインです」

伝説の男、北村秀樹。謎解きの締め括りとして、ご本人にサインを確かめなくてはならない。すでに77歳のはずだが、幸いにも千葉市でご健在らしい。しかし、侍のようだというし、なんとなく厳しそうな方なので、下手なことを言ったら「無礼者!」と斬り捨てられそうだ。

怖気づきながらも意を決して電話をすると、本人が出た。

自己紹介をすると開口一番「今野さんと柳澤さんはお元気ですか。よろしくお伝えください」と言われた。ご自身、体調がすぐれないと後に伺ったが、10年も前に取材に訪れた『卓球王国』編集部員の健康を真っ先に気遣ったのだ。その記憶力、心遣い、律儀さはまさに侍だった。

事情を説明すると「それがわかると何かいいことがあるんですか?」と、異様に切れ味の鋭い質問だ。これは曖昧な会話はできないと背中に汗をかきながら「今回の顛末を感動的な記事にしたいのです」と答えると「なるほど、わかりました」と、快く応じてくれた。

スマートフォンを使いこなす奥さんに写真を送って確認していただいたところ「間違いありません。私のサインです」とご返事をいただいた。

サインは大学2年くらいから始めたという。残念ながら船ヶ山陸男の名に聞き覚えはなく、どこでサインしたかも記憶にはなかった。しかし、陸男さんが北村さんの6学年下で、宮崎県の高校出身であることを説明すると、九州なら、専修大学時代にリコー創業者の市村清が寄贈した「佐賀県体育館」(現・市村記念体育館)の竣工記念に模範試合をしに行ったことと、社会人になってから長崎での大会に行ったことがあると丁寧にご説明いただいた。侍は優しかった。

サインの主が判明したことを船ヶ山さんに連絡した。船ヶ山さんは北村秀樹は知らなかったが、たまたま同じ兵庫県の出身だった。

「こんな凄い方を知らなかったなんて元兵庫県民として恥ずかしい限りです。凄い方のサインとわかり本当に感動致しました。夫の墓前に報告します。大切にしたいと思います」と返事がきた。

25歳の北村秀樹と19歳の船ヶ山陸男

その後、陸男さんの遺品の中に、1970年に藤沢市秩父宮記念体育館で行われた全日本実業団選手権のプログラムがあり、その中に荻村化学の監督兼選手として北村秀樹の名前を見つけたと報告があった。同じ冊子にユニチカ岡崎工場卓球部の補欠として参加した陸男さんの名前もある。当時、北村さん25歳、陸男さん19歳。全国的選手ではなかった陸男さんには、北村さんとの接点はこれぐらいしかなかったはずだと船ヶ山さんは語る。サインはこのときにもらったのかもしれない。

1970年全日本実業団選手権でのユニチカ男子チーム 後列中央が陸男さん(写真提供:船ヶ山昌子さん)
1970年全日本実業団選手権でのユニチカ男子チーム 後列中央が陸男さん(写真提供:船ヶ山昌子さん)

1970年全日本実業団選手権のプログラムより(写真提供:船ヶ山昌子さん)
1970年全日本実業団選手権のプログラムより(写真提供:船ヶ山昌子さん)

今回の捜索で判明したのはここまでである。

それにしても、サインを解読したキントキ芋の助さんの洞察力には驚かされる。一体どういう方なのだろうか。サイン解読のプロなどいるわけもないが、書道の心得などあったのだろうか。ご本人の希望でプロフィールは非公開だが、特別な素養はないそうで、次のような思考過程を説明してくれた。

  • 漢字4文字だろう
  • 最後は『樹』
  • 『柴田重樹』かな?
  • 2文字目は『田』ではないかも。
  • 3文字目は『重』ではなく『秀』のようだ
  • 後半は『秀樹』だ
  • 1文字目は『北』かも
  • 2文字目は『村』かな?大きいけど…
  • 自信ないけど『北村秀樹』で引用RTしておこう

船ヶ山さんが意を決して私にメールをくれなかったら、私の投稿がたまたまキントキ芋の助さんの目に止まらなかったら、あのサインラケットは最後まで誰のものかわからないまま朽ちていたことだろう。

陸男さんが闘病の末に亡くなったのは2012年11月23日、奇しくも『卓球王国』誌が北村さんを取材する5日前のことだった。偶然に決まっているが、何かの運命の導きを感じた謎解き物語であった。その過程も実に心ときめく楽しいものだった。たとえ解明できなくても長く楽しめたことだろう。ご協力いただいたフォロワーの方々に感謝したい。

卓球コラムニスト

1964年岩手県奥州市生まれ。中学1年から卓球を始め、高校時代に県ベスト8という微妙な戦績を残す。大学時代に卓球ネクラブームの逆風の中「これでもか」というほど卓球に打ち込む。東北大学工学部修士課程修了後、ソニー株式会社にて商品設計に従事するも、徐々に卓球への情熱が余り始め、なぜか卓球本の収集を始める。それがきっかけで2004年より専門誌『卓球王国』でコラムの執筆を開始。2018年からフリーとなり、地域の小中学生の卓球指導をしながら執筆活動に勤しむ。著書『ようこそ卓球地獄へ』『卓球語辞典』他。「ロックカフェ新宿ロフト」でのトークライブ配信中。チケットは下記「関連サイト」より。

伊藤条太の最近の記事